本質は、美しい
本質は、シンプルです。
かざりや饒舌さを、すべてそぎ取ったところで存在するもの、だからでしょうか。
ですから、ハッとするほど美しい。
たとえば、日の出。
太陽が水平線から、顔をのぞかせるだけです。
それなのに、神々しいほどの息をのむほどの一瞬が支配します。
今日という人生のはじまり。
たとえば、E=mc2。
アインシュタインが、形のないエネルギーと、形そのものの質量をむすびつけた画期的な公式。
特殊相対性理論の中心理論の一端。
美しい。
いえ、わたしには理解しかねます。
カッコつけてしまいました、スミマセん。
殿サマ、特権を利用する
いきなりですが、場面は江戸時代のとあるお城に切りかわります。
ある時、殿サマが忍者の頭領を城によんで、たずねました。
「おまえたち忍者の超人的な働きには感謝している。ところで、はかりしれないワザの数々は、どのようにして身につけるものなのか?」
老舗の料亭の主人に、秘密のレシピを問うようなものです。
ふつう、できません。しません。
でも、殿サマ特権を利用しちゃいました。
すると忍者の頭領は何も答えず、部屋を仕切っていたフスマをサッとあけてゆきます。
そして現れた「敷居」の上を、音もなく歩きはじめます。
歩きおえると、殿の前にもどり答えます。
「これが忍者の極意です」
だれにもできる、だれにもできない
一瞬、沈黙が支配します。
やがて我にかえった殿サマが、声をあらげます。
「そんなこと、誰にだってできるではないか。どこが忍者のワザといえるのか」
殿サマを見つめていた頭領は、一呼吸あけると、低い声でこたえます。
「では殿。もしこの敷居が10丈の高さにはられていたら、今と同じように渡れるでしょうか。忍者にはそれができます」
殿サマ、脱帽
殿サマは、じっとウデを組んだまま、頭領を見つめています。
やがて、うなずきながら、口をひらきます。
「おお、そういうことだったのか。いや、見事じゃ。これからも、よろしく頼むぞ」
殿サマは、ガッテンサインを送ったのでした。
敷居の上を歩くことなんて、ふつう、誰にでもできます。
はみ出すこともないでしょう。
ところが、その敷居が10丈(約30メートル)の高さにはられていたら、どうでしょうか。
タタミの間にはられた敷居の上ならスタスタとすすめられる歩みが、同じようにできるでしょうか。
足がすくんでくることでしょう。
絶対できるはず。でも、その絶対の自信がくずれてくるのです。
それが、フツーの人間の心理です。
忍者の超人さは、技の特殊性ではなく、心の持ち方の高みにあったのです。
走りだって、敷居歩きかも
だれも、幼かったころは夢中で遊んでいた駆けっこ。
走ることは、自然な行為でした。
それが「知恵」が、「社会」が、「環境」が走りを遠ざけてゆくと、いつの間にか走りがカラダから離れていってしまいます。
ある日、あらためて走りだしてみる。
だれにもできるハズ。
でも、しっくりこない。
楽しめない。
苦しい。
痛い。
うーん、こんなはずでは。
走りが、いつの間にか10丈の高さにはってある敷居になっていませんでしたか。
飛脚走りは、10丈の高さにある敷居を、タタミの間にもどすひとつの方法です。
ソレだけ、です。
桑の実の下を走る
生糸産業の衰退にともない、養蚕業は消えかかろうとしています。
かつてはお蚕の食べ物として、大切に管理されていた桑の木も、放置され、大木化している光景がみられます。
今の季節、わたしのランニングコース上にも、桑の木が目立ちます。
大きくなった桑の木は、梅雨前のこの時期、たくさんの桑の実をならせます。
そして、地面にボテボテ落ちてくる。
むかし、食べようとして、手や口や服を紫色にそめてしまった桑の実 は今も元気です。
立ち止まって、手をのばして、ちょっと口にふくんでみる。かすかな甘み。
タイムスリップする時間。
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