飛脚走りって何?

飛脚のように
風にのって
どこまでも走ってゆきたい

通りすぎてゆく風景
たどり着いた先にみえる世界に
つつまれてゆきたい
(似合いませんが、カッコよく始めちゃいました)

 

姫タン
そもそも、飛脚走りって、何のことなの?

たーさん
2本足で立った人間の、自然な走り方のひとつです。

姫タン
じゃあ、誰でもできるってこと?

たーさん
人が生まれて初めて走った姿が、これじゃないんですかね。
だから、体育の授業以来、走ったことがない人から、お年寄りまでオーケーです。
走って、故障してしまった方にも、ぜひチャレンジしていただきたいと思ってます。

姫タン
本当に、歳をとっても走れるものなの?

たーさん
うーん、それは今、ボクをつかって実証実験中です、ハハ。

姫タン
でも、さすがに、故障したら走れないんじゃないの?

たーさん
歩けるなら、歩くように走れます。
だって、歩くのに、そんな意を決して一歩をふみ出したりしませんよね。

姫タン
ふーん、言ってることはいいことづくめだけど、そのたーさんの顔、どーなの?
何だか、とってもあやしいでござるわ。

たーさん
お互いにな。
文は、人なり、みたまんまです。たしかにあやしい。
だから、このブログは、心して立ち入ってみてください(笑)。

 

本ブログの目的は、かつてあった飛脚の走りを体験するなかで、走りの本質にふれてゆきたいという試みです。
そのなかで、走ることのすばらしさを共有できたら幸せ、と考えています。
走ることは、楽しい。
走ることは、ときめく。

とはいえ、現実は、そうピーヒャララな浮かれポンチばかりではいられません。
走ることは、おのが身をつかって、一歩一歩前に進んでゆく現実世界の行為ですから。

ゲームなどのバーチャルな世界、二次元の画面上に展開する世界とはことなります。
寝ころんで、テレビ観戦で楽しめるものでもありません。

そのため、ときには痛みや苦痛にであうことがあります。
故障して、長くつらい時期をおくることもあります。
心おれる場面だって、場合によっては、日常茶飯事です。
まさに、人生の縮図って感じでしょうか。

 

最初に、簡単な自己紹介をさせていただきます。

 

若いころは運動部とは無縁、というより、自称文学セーネンとして、運動とは対極の生活をおくっていました。
仕事についてからは、さらに運動には縁遠くなり、いわゆるメタボ街道を歩むことになります。
礼服は、2度のバージョンアップ。
最後は、アジャスター付きのズボンに成長してゆきました。

転機は40歳。
中年オジサンとなり、体力の衰え感を自覚するようになっていったころ、ふとしたはずみで走りに出会いました。
と云うほどのことではありませんが、たわむれに田んぼ道を500メートル走ってみたのです。
体育の授業以来のご乱行です。
いえ、正確ではありません。
500メートルは走れませんでした、400でゼイハア、降参。
走りが楽しいなんて、コレッポッチも感じませんでした。
わいてきたのは楽しさより、こりゃ、ちょっとヤバイかも感です。
危機感のなかで、少しずつ朝ランがくらしに入ってゆきました。
そうする中で、だんだんと走りが楽しくなってゆきます。

50歳で、ふつうのハーフマラソンデビュー
そう40代の10年間は、田んぼ道グルグルするだけでした。
文字通りの、遅咲きのデビュー、といいたいところですが、いまだに咲いてません。
咲く前に、散ってしまいそうです。
ハーフの2ヶ月後にフルマラソンデビュー
30キロをすぎて「こんなシンドい世界があるのか」の初洗礼。
でもゴールできたとき、世界観が変わってゆきました。
それは、一人では決して走ることのない距離への邂逅。
試行錯誤、紆余曲折、昨非今是、波乱万丈、右顧左眄の新しい日々。
この顛末は、本ブログで紹介させていただく予定です。

60歳で、ランニング人生のふり返り。
ヨレヨレ独自の試行錯誤で走ってきた道すじが、3つの柱で支えられてきたことに気づきました。

走りの3本柱

調身:カラダを整える
調息:呼吸を整える
調心:イメージを整える


そして、この3つを兼ねそなえた走りをしていた先人に夢の中で出会いました。
それが「飛脚」です。

そうか、自分の走りは、飛脚に導かれていたのかもしれない。
飛脚との出会いは、驚き、感動をもたらしただけでなく、新たな目標まで産みだしました。
飛脚の研究と紹介。
それが、当ブログ生い立ちの記でもあります。

ブログ開設にあったって、何名かのコメントをいただきました。
ここに、うやうやしく、ご紹介させていただきます。

 

飛脚の伝六さんのコメント

 

いやあ、驚いたよ。
目の前に「どこでもドア」が開いたと思ったら「300年先の世界からやってきました」なんていいながら、たーさんが現れたんだからさあ。

そうさ、おいらは飛脚をやっているよ。
多い日には、1日に30里(約120キロ)くらいは走るさ。
それが、つづくこともあるよ。

といって、ふだんは走っているわけじゃないから。
何で理由もなく走らなくちゃならないんだい。

それに、毎日仕事ってもんがあるだろ。
田んぼも畑も、勝手にできちゃくれないよ。
野良の世話しなくちゃ、おマンマの食い上げじゃないか。
耕して、タネまいて、草むしって、1日なんてあっという間に過ぎちゃうよ。

ああ、走り方かい?
そんなこと、考えたこともないよ。
荷物を届けるのをたのまれたときに、歩くよりはやく行くだけだよ。
それを、走るっていうんかい。
ふーん、歩くのがはやくなっただけだろ。
おいらは、そう区別したこともなかったなあ。

そう、歩くのがはやくなっただけだよ。
それで、いいんじゃないのかい。

走り方を見せてくれなんて、そんな、見せるようなもんじゃないけどな。
本当に、歩くのがはやくなっただけだよ。
それよか、せっかく来てくれたんだから、少し畑を手伝ってくれないかなあ。
あとで、お茶出すからよ。

 

たーさん
伝六さんて、走っているように見えないのに、どんどん先にいっちゃうんだよね。
TV中継でみるマラソンランナーとは一線を画す動作なんですよ、探求しがいがあるなあ。

 

 

メキシコ山中 ラムカイさんのコメント

 

いやあ、驚いたよ。
いきなり山道に「どこでもドア」がたってて、日本から、たーさんが来たんだものな。

まだ、朝だよ。
そう、下におりて水場でくんできた水を運び上げているところさ。
2キロくらいかるけど、この往復から1日が始まるのさ。
大きい容器だろ、20リットル入るんだ、でもこれで1日分さ。

なにしろ、水道なんてないからね。
電気はどうかって?
そんなもん、あるわけないだろ。
火と光は、マキで十分じゃないか。
そうそう、この後はまた山を下ってマキ集めだよ。

何でこんな不便なところで暮らしているのかだって?
どこが不便だよ。
もう、ずっと昔からここで、こう暮らしてきたんだよ。
山を降りたいなんて思わないよ。

それより、どうだい、山の上なのに広大な畑が広がってるだろ。
この斜面全体に、モロコシができるんだよ。
時々は野生の馬をつかまえて耕作を手伝わすけど、ほとんど人の手でやっているんだ。
1日、どれだけ歩くかって、ほとんど歩いてるよ。

ハキモノは、ごらんの通り、古タイヤから作ったワラーチさ。
日本でも、同じものをワラジって言ってるってのには驚いたよ。
そういえば、われわれとたーさんの顔、似てないか。

ふだんは、走ったりはしてないよ。
仕事が忙しいしね。

でも、祭りは走るんだ。
走ることが祭りなのさ。
だから、走る民(ララムリ)なんて、下の人間からは言われることもあるけどね。
そう、走ろうと思えば、いつでも走れるよ。

たーさん
山道をね、歩くでも走るでもないような、軽やかな移動で働いているんですよ。
男の人も、女の人も、子供もですよ、なんだか別世界に来ちゃったみたいな不思議な感じ。
ここに、現代の飛脚生活をみましたよ、感動です。

 

国文学者 京二さんのコメント

 

古典は「古いもの」ではありません。
古いだけなら、それは、すたれ消えてゆく運命です。

古典の本当に意味するものは「普遍的なもの」です。
普遍的なものを秘めているから、世をこえ、時代をこえて、今も人の心に届くんです。
源氏物語徒然草が古典というのは、古い時代の作品という理由じゃなく、今も人の心に語りかけるものをもっている、ということです。

それは、ショパンモーツァルトが今も奏でられるのと同じです。
この旋律のなかに、今も感動をつたえるものをもっているからです。

ところが、現代社会は、古典を古臭いものとして、切り捨てようという流れが渦巻いています。
とろあえずの手っ取り早さ、お手軽さ、簡便さ、わかりやすさが重視されてきた結果ですかね。
何百年も人とつながってきた作品を、単に古臭いという理由で切りすてて、どこにむかおうとしてるんですかね。

飛脚の走りですか。
何もない時代を、走っていた人たちですね。
何もない、ということは、逆に人の能力を最大限に利用した走りだったんじゃないかなあ。

だって、クツも装備も、ないんでしょ。
道だって、今とは比べようがない。
走る古典を感じます。

おもしろい世界があったはずですよ。
そこに、走る普遍性がひそんでいるかもしれませんね。
わたしは走りませんが(笑)。

たーさん
野生動物は、たぶん、ずっとずっと歩き方も走り方も変わらないで生きています。
人間だけは、大きく変わってきちゃったことを、どう考えますか?

 

江戸文化研究家 咲子さんのコメント

 

車も電車も飛行機も飛ばない江戸時代に、旅人は1日にどれほどの距離を歩いたのでしょうか。
歩く道も、現代とちがって、舗装もなければ橋もない川だってたくさんあった時代の話です。
しかも、人の足ですから、山や峠があるか、天気はどうか、などの要因も大きく関わってきます。

もちろん距離メーターなんてありませんから、おおざっぱには宿場間を基準に考えてみます。
そうして出された結果は、おおよそ1日に40キロメートル前後といわれています。
だいたいフルマラソンに近い距離です。

東海道は、お江戸日本橋から京まで126里6町、約492キロですが、平均すると13日ほどの日程になったそうです。
つまり単純に計算すれば、1日38キロです。

東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんも、1日目は日本橋から戸塚宿までの42キロ、2日目は小田原宿までの40キロ、3日目は箱根までの30キロ。

現代の不動産表示では「1分80m」が基準ですから、それでいくと40キロを休みなしで歩いても8時間半ほどの歩行時間となります。

ところが、江戸時代の歩きは、もっと速かったようです。
わたしも職業柄、ふだんは着物に草履であることが多いですが、これだと歩きやすさが全然ちがうんです。
しかも、はやく歩ける。
パンプスだったら歩けない距離が、すいすい行けちゃうんです。

江戸の身体感覚でしょう。

ところで、飛脚が特別な走りをしていたでしょうか。
私個人は、そうには思いません。
もともと速く歩けた江戸歩きの、2倍から3倍の速さで移動できただけじゃないでしょうか。
つまり、江戸時代には、歩きと走りの境界線はそんなにはっきりしなかったのじゃないでしょうか。
歩くように、走る。
走りの中に、歩きが入る。
走りを特別なものとしてとらえてはいなかったんじゃないですかね、江戸の人たちは。

ふだん着物生活を送っていると、体の使い方が変わってくるんです。
とっても、おもしろい。
たーさんも、そこに着目しているようですね。
そもそも、陸上競技なんて経験したことない人ですもんね。

だから、何が出てくるかわかりませんが、注目はしています。

たーさん
着物に草履で歩くだけで、体の感覚が変わってしまう経験は、1度はしていただきたいな。
えっ、こんな風に歩けるんだって、人生が変わっちゃうかも。

 

文芸評論家 健一郎さんのコメント

 

生きてゆく、というのは、つねに未知の世界にわけ入ってゆくということです。
学生なら学業の混沌とした世界へ、社会人は社会の混沌とした世界へ、そして老いてなお老いという混沌とした世界へ。

そこには、経験はありません。
手さぐりで、試行錯誤の連続です。
ときに既視感(デジャブ)に照らされることがあるかもしれませんが、でも実際は未知なる世界です。

そのなかでも、特に大きな闇に出会うことがあります。
ひとつは罪の世界、そして人を想う世界です。
前者の混沌をえがいた作品としてドストエフスキーの『罪と罰』、後者の一例としてスタンダールの『赤と黒』をあげておきます。

といって、この作品にぶつかっていったとしても、解決は得られません。
場合によっては、さらに混沌の荒海に放りこまれることになるやもしれません。
文学とは、そういうものです。
ああ、人生にはなんて解決のつかないことばかりが目の前にそびえ立っているのか、ということを知ることは、逆に人生の道しるべにもなるんです。

本当に大切なことは、そうそう容易に答えは見えてこないものなんだよ。
そういった深淵をのぞく世界が、人生には必要なんです。

なんだか、国語が論理や読解力に肩入れして、文学を切りすてようとしているね。
論理や読解力のためなんていってるけど、数学や科学があるんじゃないのかね。
闇夜を失った人なんて、どうなっちまうんだろう。
人生の闇にむかう学問が、どうしても必要なんですよ。

飛脚の走りですか。
うーん、棒をかついで街道を走ってゆく人だよね。
なんてシンプルな絵なんだろう。
でもシンプルさの中には、じつは走りの本質がつまっているような気もするね。
対極の重装備と比べてみるとね、逆にその混沌とした深さを感じなくもないです。
簡単には、答えはでないかもしれないだろうけど、そんな混沌につきあってみるのもいいよね。
少数派、応援するよ。

たーさん
わからないから、あやしげだから、っていう理由で敬遠するのは、もったいないかも。
人生の楽しみは、案外、トンデモと思った経験から生まれたりしますよ。

 

JK モエちゃんのコメント

 

え、マラソンですか?
まじ、考えられない。
体育の授業だって、イヤなのにね。
だって汗くさくなるし、朝まとめた髪も台無しになっちゃうじゃないの。

そういえば、ときどき通学路を走っているひとを見かけることもありますよ。
何が楽しいのかしら。
だって、顔は笑ってないもの。

え、わたしは遠慮しますよ、走るなんてチョー勘弁ね。
ショッピングとスマホで、いそがしんです。
コメント求められても、こまります。

それより、きょうはカゼの薬をもらいにきただけなの。
はやく出してね。

たーさん
はいはい、ボクも若いころは、走るなんてとんでもありませんでした。
でもあと30年したら、走りに興味がわいてくるかもね。
そのときは、ボクもこのブログもなくなっているでしょうから、本をゲットしておくのは悪くないかも(笑)。

 

恐山学院大学陸上部 競さんのコメント

 

自分は中学時代から陸上部に所属して走ってきました。
もともとスタートダッシュより、心臓に自信があったので、中長距離を得意としてきました。
ただ、インターハイとかそういう全国規模の大会には縁がありませんでした。

それでも走りのは大好きで、練習は毎日欠かしません。

大学に入っても、自分の実力では箱根駅伝に出るような大学には入れませんでしたが、コツコツ自己ベストの更新を目指してきました。
その結果、5000も10000メートルも、そこそこ走れるようになってきました。

ところが練習のしすぎだったのでしょうか。

疲労骨折、足底筋の痛み、ふくらはぎの痛み、足首の痛みと、故障がつづくようになってしまいました。
ある意味、20歳そこそこで、ボロボロの体です。

構内を陸上とは関係のない同級生と歩いても、痛みでいっしょについてゆくのさえきついのです。
そうです、歩くことさえ普通にできなくなってしまったことに気づいたときに、多くな衝撃を受けました。
もう、自分の陸上人生は終わったな、と。

そんなとき、たーさんに出会いました。
たよりなさそうな人でしたが、ワラにもすがる思い、があったんでしょうね。

飛脚の走りと、その基本である江戸の歩き方には興味を覚えました。
走れないどころか、満足に歩くことさえきつかったのですが、ゾーリに着物感覚の歩きをはじめたところ、歩けるようになっていったんです。
不思議なんですが、歩いても、痛みが出ないんですよ。

だんだんと、この調子で、1時間、2時間と歩けるようになってゆきました。
そうしたら、同じ要領で、少しずつ走れるようになってゆけるんです。
まだスピードを出してガンガンゆく、というわけにはゆけませんが、また走れるんです。

でも、走り方がグッと変わったという印象は強いです。

これで、どこまで速く走れるかとたーさんに聞いたら「ぼくは速く走ったためしがないからわからん、君が答えを探してゆきなさい」と、肩をおされました。
自分が責任をまかされたとぐっときましたが、これって、ていのいい責任転嫁ってやつなのかなあ。

でも、今は自分の走りが楽しくなってきています。
走るって楽しい、というのも、新しい発見です。

記録の追及より、走る楽しさの追求の方に、関心が移っていっちゃったみたいなんです。
ここも、たーさんの影響なのかなあ。

たーさん
いえいえ、そんな悪の道とか、堕落の世界に引っぱりこんだりはしてませんよ。
うーん、競技の世界事情はよくわからないので、ぜひ今後の経過を教えてくださいね。

 

循環器科医 均さんのコメント

 

医療の世界では、長く重症患者には「絶対安静」を指示してきました。
心筋梗塞発症時も例外ではありません。
心臓への血管がつまって心筋細胞が壊死にむかうときに、今以上の負担は言語道断という発想法です。
身体中にモニターをはりめぐらし、ベッド上安静です。

ところが、それは正しかったのでしょうか。
今は「動かない」ことの弊害の方が重要視されるようになりました。
心筋梗塞発症時にあっても、排泄はしっかりすわってしてもらいます。

心筋梗塞後の活動性についても、同様です。

ホノルルマラソンの父」とも称されるDr.Jack H.Scaff,Jrは循環器科医です。
彼は、心臓リハビリテーションのひとつの到達目標として、フルマラソン完走をかかげました。
その理念で創設されたのが、ホノルルマラソンで、1973年のことです。

大切なことは、自分のペースで走ること。
そのために、制限時間をもうけない大会にしました。
この理念は、今も脈々とつづいています。

自分のペースを理論的にまとめたひとつが「嫌気性代謝閾値(AT)」にもとづく運動で、これはのちに乳酸閾値(LT)との関連性がしめされてきました。
このペースにのせて走れば、心臓病患者さんも、安全にフルマラソンを走れる。

ところが、ATとかLTとかいわれても、自分の値をしることは、そう容易ではありません。
ましてや、走っている最中に、これらをモニターすることは困難です。

で、驚いたことに「飛脚走り」のなかには、このAT、LTの概念が入っているんですね。
ペースや呼吸の話の中です。

あ、遅くなりましたが、たーさんは、わたしの大学の同級生です。
授業には出てこないで、へんな文芸雑誌をつくったり、赤点ばかりで再試のあらしのなかを、よく卒業できたもんですよ。
やっぱ、要領かな。
昔は出席もとらないし、教授もフトコロが深かったからなあ。
だからといって、卒業したんだから、まあ、仕事もせいよな。

また、わたしもホノルルマラソンに出たくなっちゃったな。

たーさん
いやあ、優秀な友をもっていると、なにかとありがたいです。
アホなボクでも、持ち上げてくれる、さすがに人間ができてますよ。

 

あらためて、開設者から

 

どうも、コメントをよせる人たちがアヤシイ。
そもそも、ちゃんとしたランニング経験者がいないじゃないか。
300年前の飛脚さんのコメントなんて、とれるわけないじゃないですか。

はい、こういうノリで進めさせていただくのが、当ブログの特徴です。
どこまでが本当で、どこからがオヨヨなのか、というのを確かめ確かめすすむのを楽しんでください。
すべてが正しい世界なんて、ないもんです。

権威は、ありません。
裏付けも、じつにあやしい。
ただし、すべてわたし自身の実証にもとづいたものであることに間違いはありません。
そのわたし自身がアテにならないのだから、心配なんですけど。

信じる? 信じない?
走る? 走らない?