花火とランニング

ドドンパ花火

 

夜空をかざる打ちあげ花火は、大きく2つの仕組みで作られている、といわれています。

ひとつは、空高く打ちあげるための構造。いわばロケット部分。
もうひとつは、空中で花ひらく火薬調合の妙。

ロケット構造には、花火一般の共通性があります。
花火の個性をかざるのは、後者の工夫です。

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人の走りが、多彩であることをみてきました。
一方、野生動物の走りは、しばしばシンクロしています。

この差は、どこから生じてくるのでしょうか?

3つの例をとおして、考えてみたいと思います。


呼吸は、あんがい個性がない(例1)


呼吸の仕方を教えてもらってから始めた人を、わたしは知りません。
自分でも、いつの間にか、しちゃっていました。

いつから、していますか?
多分、誕生日からです。そして、その後、ずっと。

物心つく前から身についていて、そのあとも教えてもらっていないものは、案外似てくるようです。先天的な能力、といいます。

静かにしているときの呼吸は、個性よりも共通点のほうが目立ちます。

吸ってはく回数は、1分間に12回前後です。
1回にすう量は、500mlのペットボトルには足りないくらい。400mlくらいです。小さな人も、おスモーさんも、大差がありません。

吸う力も、はき出す力も、ほぼ人類共通。

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呼吸の止まってしまった人に、人工呼吸器をつけることがあります。
基本的な初期設定がすませてある人工呼吸器は、誰にでも使えます。ただし、成人対象ですが。あとは、ちょっとソノ患者さんにあわせた微調整をしてゆけば、スタートは可能です。
みんなが似ているからできる芸当です。


たべる光景は、さまざま(例2)


たべる 能力も、教えてもらうまでもなく、身につけています。

オンギャーしたあと、いつの間にか、オッパイを吸いはじめます。
先天的な能力のなせるワザです。

ところが、ここに「どこでくらすか」という運命で、食事の仕方は変化をみせてゆきます。後天的な修飾がくわわってゆきます。

フォークとスプンでたべる文化。
ハシでつまんでたべる文化。
手で直接もってたべる文化。

イスとテーブルでたべる文化。
正座してたべる文化。
アグラの姿勢でたべる文化。

たべるものだって、どんな食材か、どんな調理方法か、どんなマナーか、でさまざまな色付けが加わってゆきます。

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それでも、口に入れてからのモグモグ、ゴックンの行程では、人類の共通性がみられますが。


かけ算九九は、まとめられない(例3)

かけ算の能力を、生まれもって身につけている人はいません。

6×7=?と問われて、42と答える能力です。
コトバを覚え、文字や数字を学習し、方法を学んで、くり返してできるようになってゆきます。

ほぼ100%、後天的に身につけてゆく能力です。 
ですから、育ち方、育つ環境、育つ文化で大きな差がみられます。

すばやく、かけ算のできる人。
つっかえながら、なんとかできる人。
どーしても、うまくできない人。

教わったことがない人(世界は、広い)。
まったく縁のない人。
そして、2ケタ同士のかけ算まで暗算でできちゃう人。


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一般論ですが



先天的な要因が大きなものほど、共通性がみられます。
たとえば、呼吸。

生まれたあとに、文化や教育や伝統や道具などの、いわゆる後天的な要因が加われば加わるほど、多様性にとむ様相をもせるようになってゆきます。

食事のとり方。
そして、かけ算九九。

走り方」は、本来、身につけてもっている先天的な能力です。
だれもが、いつの間にか走りだしていました、幼いころに。

そのまま、呼吸のように育まれてゆけば、おそらく人類共有の走り方がみられたことでしょう。
そう、野生動物と同じように。

チーターの走り方は、どのチーターも、よく似ています。

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走りの個性は、社会がはくぐんだ

 

人の走り方は、多彩です。
でも、それは持ってうまれた能力の多様性を意味するものではありません。

後天的」に育まれていった要因が大きいのです。
では、何が走りを後天的に修飾していったのでしょうか。

ハキモノ。
集団生活。
アスファルトの道路。
走らなくても、くらせる環境。
走る必要性がなくなった社会。
 一方で、教育されたり指導される走り(体育とか部活動とか)。

たくさん、思いうかびます。

でも、ひとことでまとめようとすれば、次のようにいえませんでしょうか。

「走りの自然さ」から離れていった後天的な結果、であると。

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余分なものを、おろしてみる


幼かった無垢の時代、どのように走っていたでしょうか。
何も身にまとっていなかった時代。
何も教えてもらわなかった時代。

カラダは一番自然な動きをしていたはずです。

走りだって、例外ではなかったはずです。
一番合理的だった、といってもいいかもしれません。

それを、もう一度、体感してみませんか。

むつかしいことではありません。
教わる必要もありません。
だって、すでに身についているものですから。
自分の中にしまい忘れていたものを、とり出してくるだけでいいんですから。

そのためには、後天的なモノを、そぎ落としてゆくだけです。
背負いすぎてしまったものを、置いてゆくだけです。

だから、だれでも、もう一度走りだしてゆけるんですね。

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