歩く決心
ちょっと買いたいものがある、この先のコンビニまで。
さて、出かけるまでに、どの程度の決心が必要でしょうか。
はい、ときと状況によります。
たとえばカミナリ様がピカピカズドン、だんだん接近中という状況ではどうでしょうか。風も強まって、看板がビュンと飛んできてもおかしくないような雰囲気です。
雨音も、ハンパない大音響。ここでの外出は、命がけになるか。
地震、カミナリ、火事、親父
そんな事態って、よっぽど特別じゃないか。そうです、1年に1度あるかないか。いえ、何十年に1度でしょうか。
ふだんでは、ありえないシチュエーションです。
コンビニまでゆくのに、「決心」なんていりません。さっとゾーリをひっかけて、サイフをもって玄関を出ればいいだけです。何を考えることがある。
質問:上記表現中、年寄り表記をチェックしてください。
答え:「ゾーリ」→いま、そんなの履くかい。
「サイフ」→カードでしょ、あるいはスマホですむでしょ。
走る決心
ちょっと走ってこようか。
この行動には、どれほどの決心が必要ですか。
ちょっとコンビニへ、よりは敷居が高くなります。いやいや、敷居じゃないだろう。万里の長城のような壁になっている、なんて人もいます。
まず、走る格好が必要です。
クツも、用意しておかなくちゃ。
それから、飲み水も携帯してゆきたい。なにしろ、脱水が心配だ。
走りおえたあとの汗もどうしようか、シャワーを浴びとかないと、人に会えない。
天気は良くて、カミナリの心配もないのに、走りへの閾値はとめどなく高くなってゆきます。あきらかに、歩くこととは別あつかい。
走りは、気持ちのバクハツ形
ところが、幼かったころは、だれも歩くことと走ることの区別なんてしていませんでした。
誰に教わるまでもなく歩き始めると、いつの間にか走りまで身についている。これを、遺伝子に組みこまれている能力なんて表現されることもあります。
とうぜん、歩く姿も、走る姿も「自然体」です。なにしろ、遺伝子にもう刷り込まれている行為だからです。
さて、それでは、どんなときに走ったでしょうか。
遊び心が、はじけたときです。
歩っていて、気持ちが高揚し、感情のエネルギーが高まると、火山が噴火するように走りだす。気持ちのバクハツが、走りになっていませんでしたか?
走るとき、いつもココロには熱いエネルギーが、充填されていたんです。
だから、走ることは、ユカイでスカッとする行為でした。
キャッキャ、キャッキャ、大きな声まで伴っていませんでしたか?
うれしいときばかりでは、ありません。
お母さんにおいていかれそうになって、泣きながら必死にあとを追うように走ったこともあります。
とつぜん現れた物陰の犬にほえられて、恐怖で駆け出したこともあります。
そこに、笑いはありません。
でも、いつも走りには、気持ちのバクハツ力が動力になっていました。
熱いココロが、走りのエネルギーになっていました。
くらしから走りが消えた日
でも、やがて多くの人の中から、「走る」行為が消えてゆきます。
移動は、歩くだけ。
そして歩くことすらも、バスや電車や車にとってかわって、出番がへってゆきます。
さらに現代、ITや宅配の出現で、移動することすら減ってしまっています。
歩かなくても、くらしてゆける。まして走りがなくなってもこまりません。
便利になりました。
楽になりました。
余は満足じゃ。申し分ない。
いい時代に生まれたものだ。次は自動運転車よ、はよ出てこい。
走りが消えて変わったこと
カラダの違和感、ココロの違和感をキャッチする人がふえてきました。
何かが、変だ。
もやもやする。
疲れやすくなったような気がする。
動かないのは、進歩だったのか。
そうか、わたしたちは「動物」じゃないか。動く存在じゃないのか。
置かれた場所で咲くのは、植物です。
動かなくてもすむ時代になって、逆に意識してウォーキングする人が増えてきました。
そしてマラソンブームがやってきました。
ところで、カラダの違和感、ココロの違和感は、どこで感じたのでしょうか。
最近、気持ちの高揚感、なくね?
気持ちのエネルギー、枯渇してきてね?
そうか、走るって、感情のバクハツだったじゃないか。
地中深くに沈んで、地熱さえ伝わらなくなっていたマグマが、ふたたび上昇してきた瞬間です。ああ、走るって楽しい。
感情さえ湧き上がってくれば、走りは楽しめるんです。決心なんか、いらなかった。さあ、第一歩。
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