重さを感じる
スーパーにいったら、お米コーナーに立ち寄っていただけますか。
まず、5キロの米袋を持ってください。
つぎに、10キロの米袋にチャレンジです。
10キロの米袋、けっこう重いです。
ですから、お米20キロ、つまり10キロの米袋を2つ買おうとしたら、カートにのせてゴロゴロ運ばないとしんどいでしょう。
10キロの重さの実感。
20キロの重さのシンドさ。
さらに、10キロの米袋をかかえて、階段をのぼる姿を想像してみてください。
平地よりもきつい。
重力が加わるからですね。
さて、自分の体重は、どのくらいでしょうか。
10キロの米袋2つ分、なんて方はおられないかと思います。
5袋ですか、6袋ですか、7袋ですか。
わたしは、現在65キロですから、10キロの米袋6つと、5キロの米袋1つでつりあいます。お米って、貴重、そして重い。
カラダって、重い存在
ひとのカラダは、いがいに重いものです。
10キロの米袋がいくつも必要な重さです。
自分の体重と同じだけの米袋を一度に運ぶなんてことは、至難のワザです。
でも考えてみれば、歩くとか走るという行為は、その重さの米袋ならぬ「自分」を運ぶ行為にほかなりません。
つくづく、ご苦労様です、と自分をほめてあげたい。
ところで、お米の単位、1俵は60キロです。
これって、体重から発案された単位なんでしょうか。
ひと一人をかかえる重さを、お米の基本単位にしておこう、と。
現代では、ちょっと考えにくい発想です。
昔のひとは、力もちだったのですね。
重さのにがし方
安楽な体位のひとつに「寝る」姿勢があります。
ゴロリと横になることです。
あー、楽チン。
楽なんですが、ひとのカラダはスライムみたいに全体がプヨプロ構造ではありません。
ゴムボールみたいに、まん丸くなることもできません。
骨のデッパリが、要所要所にあります。
そのため、かたい床の上に直接横になると、ゴツゴツ痛みを感じます。
床面とカラダの間に、クッション性がほしい。
フトンやマットの登場です。
でも、一晩横になるには、クッション性だけでは不十分です。
事実、いいフトンの上に寝ていても、一晩ピクリとも動かなければ、皮膚のデッパリ部には床ずれができてしまいます。
床づれというのは、皮膚の心筋梗塞のことで、圧迫されて血液の流れが止まり続けた結果、組織が死んでしまう現象をいいます。
そのため、15分から30分に一度は、カラダの向きを変えねばなりません。
同じデッパリ部分に力がかかり続けないよう、力をにがすわけです。
ひとには自動知覚センサーが埋め込まれていて、15分から30分に一度は、熟睡していてもカラダの向きが変えられるようできてています。
それを「寝がえり」とよんでいます。
じっとしているのは危険
寝ているときだけではありません。
座っているときも、立っているときも、カラダの同じ部分に体重がかかり続けることは危険です。
やはりピクリともしなければ、体重ののる部分にと床づれができます。
体重は、バカにできない重さをもっていることの実例です。
ですから、わたしたちは、座っていても、立っているときも、ほとんど無意識のうちにモゾモゾ動いて、体重が一か所にかからない工夫をしています。
モグモグも大切ですが、モゾモゾも生きていくのに大切な行為です。
移動時の重さ
歩いたり、走ったりしているときは、カラダの同じ場所に体重がかかり続けることはありません。
そのため、歩いたり走ったりしたときに、クツズレがおこったという話は聞きますが、床ズレがおきちゃった、という話はありません。
ふーん、じゃあ安心だ。
では、ありません。
別の問題が生じています。
安静時とは比較にならないほどの力が生じている、ということです。
なにしろ、米俵が移動するんです。
ときに、走るんです。
生半可な力ではない、ということが想像できるでしょうか。
アリさんが、この下にきたら、一気にペシャンコになってしまいます。
うーん、たとえが弱いですかね。
移動する米俵を支える主体は、何でしょうか。
自分自身のカラダそのものです。
そうか、自分のカラダって、ハンパない力を受けもっているんだな、ということを考えていたでしょうか。
うまく想像できなかったら、自分と同じお米袋をもち上げて歩いてみてください。
あるいは、同じような体格のひとを背負っって歩いてみてください。
体重は、巨大だ。
それを支えるカラダって、偉大だ。
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