教育効果
教育の中で、身につけてゆく思考法があります。
世の中には、「正常」や「基準」や「正解」がある、ということです。
つまり、正しいものがある。
学生であれば、試験には「正解」をかかないと、点がもらえません。
健康診断をうけても、たとえば血液検査の結果では、「正常域」かハズレているかのチェックがはいってきます。
正しいものを求める発想がさらに昇華してゆきますと、ついには「理想」にゆきつきます。最も、望ましい存在。
芸術の分野では、絵画や彫刻のなかに、理想を求めることができます。
理想のカラダ、理想の世界、理想の自然。
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時代の中で、芸術はときに「理想」にあがらい、現実はもっとシュールだ、という主張もみられますが、それすらも「理想」あっての発想ですね。
理想を求める。
「正解」や「基準」や「正解」が、世の中にはあえう。
正しさは、どこにある
正しさなるもの。
オマエは、どこから生まれたのか。
考えてみると、正しさなるものは「自分とは直接には関係のない外の世界」でつくられたもの、ということに気がつきます。
しつこいですが、自分の「外」の世界でつくられた基準です。
自分がいても、いなくても存在しうるもの。
あるいは、自分が生まれる前からあったもの。
精神の「正常」は、診断する人間や時代がつくってゆきます。
血液検査の「基準」は、検査をおこなうひとによってつくられた便宜上の範囲です。
試験の「正解」は、出題者によってつくられた案です。
どれも、自分の「外の世界」でつくられています。
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正しい生き方
世の中には「正常」や「基準」や「正解」がある、という発想の中でくらしていると、行動や思考にはいやでも「正常」や「基準」や「正解」が影響をおよぼしてきます。
自分が「フツーの人」として世の中でくらしてゆくためには、あまりに突飛であっては生きにくい、のが現実です。
まず選ぶのは、世間の正しさです。
人の目が気になる、というのはそのひとつです。
他人の評価が気になる、というのも同様でしょう。
そして、これが世の中をブナンに渡ってゆくための、コツにもなります。
就職するための「就活」も、強い独自性を主張していると、しばしばうまくはゆきません。
世の中のブナンさ、の中に身をひそめながら、でもささやかな自己主張をおこなう。
ストレスの多い活動です。
「コレでいいのだ」
と、バカボンのパパのように自分の好きな道を歩めたら楽しいかなあ。
ちなみに、フランス語で「バカボン」というと「放浪者」という意味になります。やはり、世渡り的には、ちょっとハズレてしまうのかな。
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正しい走り方
求める人がいれば、答える人がでてきます。
「どのように走ればいいですか?」
「はい、その方法はね」
情報化時代の中になって、「答え」はいかようにも手にいれることができます。
正常な走り方。
基準的な走り方。
正解たる走り方。
そして、理想の走り方。
つまりは、正しい走り方。
おすすめのシューズの選び方。
正しいクンレンの仕方。
望ましい食事やサプリのとり方。
でも、待ってください。これらは、自分の「外」の世界から発せられた概念です。
もちろん、ありがたい情報です。
自分で、一からつくりあげてゆく手間もはぶけます。
自分だけでは、うかがい知れない内容に触れることもできます。
ありがたく、勉強もさせていただきます。
ここで、あと「ひと手間」が欲しいと思います。
で、自分にはどうですか?
情報という字は「情」に「報いる」と書かれますが、ちゃんと報われていますか。
しばられたり、ふり回されたりしていませんか。
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つまりは、自分
自分の外なる情報に不自由しない時代です。
というより、外なる情報に、振り回されることもある時代です。
今日という1日、どれだけの外の情報に触れましたか?
テレビ、新聞、インターネット、SNS。
走るという行為は、自分の中の行為です。
自分は、どう感じているか。
自分は、どう動けるか。
意識さえ向ければ、そのまま直に感じとれる行為です。
自分のカラダとアタマで考え、判断できる行為です。
「自分にとって」どうか、をいえる最高の行為の一つですね。
本当の教育の目的も、ココにあると思うのですが。
「自分では、どう考えますか?思いますか?感じますか?」
走ることくらい、まず自分の「内」なる感覚や感性で楽しんでみてもいいんではないでしょうか。
そうすると、生き方まで変わってゆけるかもしれません。
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