無意識を、ほりおこす

ゆたかな無意識

 

わたしたちのカラダは、ゆたかな無意識活動で、支えられている。

こんなに長く生きてきて、やっと実感として、わかってきました。
それも、走ってきたおかげです。

意識が、ある。
意識が、とりしきる。
意識で、生きてゆく。

でも、あまりに「意識」にたよりすぎて、すごしてきたのかもしれない。

なにしろ、意識は、意識しやすいですから。
そして、社会は、意識でつくられていますから。

世の中のニュースは、すべて意識の世界の物語。
学校や社会で学ぶものも、意識の世界の知識。
意識が、この世界を、つくっている。

その結果、なんでも意識が主役になっていました。
もちろん、走り方もです。

とはいえ、ここでは「意識」と「無意識」のどっちがエライという比較ではありません。

でも、ちょっと立ちどまってみる。
意識の層にかくされてしまった、無意識の存在に気をとめてみる。
ちがった世界が、みられるかも。

 



 

弱さを味方につけて

 

走りつづけてゆくと、無意識の世界に触れられるような気がする。
別のひょうげんをすれば、意識から離れられる気がする。

はい、これは非常に個人的な体験です。
みなが同じことを感じられるかは、わかりません。

わたくしは、この点で、めぐまれてきました。
走りはじめたのが、おそい(40を過ぎてから)。
走る体力も、そうそうない(400メートル走れなかった)。
走る体力だって、ない(すぐばてる)。

なので、走って力尽きる体験が、じつに身近にありました。
当初は、こまったものでした。
いまも、こまったチャンは、かわりませんが。

ところが、走って尽きると、意識が薄れることに気づいてきました。
ぶったおれてしまう、意識の薄れではありません。
体験したこともないような、新しい感覚。
そしてあらわれたのが、無意識。

こんにちわ、無意識さん。

悲しみよ、こんにちわ。
フランスワーズ・サガンのノリです。

 



 

むかしの思い出

 

無意識の世界。
無意識の行動。
無意識のラン。

これらは、特別なことでしょうか。

まずは、昔を思い出してみてください。
はじめての、ハイハイ。
はじめての、歩き出し。
はじめての、走り。

そのとき、どんな意識をもっていたでしょうか。
意識のはなしです。
覚醒度ではありません。
覚醒度は、保たれていなければ、起きてませんから。

だれかに、教わったわけではなかったはず。
いつのまにか、していた行為。
そして、意識を意識していなかった時代。

これを、本能的と表現していいでしょうか。
カラダに、すでに組みこまれている行為の実践。

ある意味で、無意識におこなっていませんでしたか。
意識的なのか、無意識的なのか、それすらも思い出せないけど。
だからこそ、「無意識的」と、とらえられませんでしょうか。

 



 

再現

 

むかし、むかしの、はじめての行為。
ハイハイ、歩き、走り。

そのとき、痛みはあったでしょうか。
息切れを、ガマンしていたでしょうか。
おっくうさを、感じていたでしょうか。
準備体操を、必要としていたでしょうか。
日々のクンレンを、課していたでしょうか。

なにより、教えをこわないと、出来ないものでしたでしょうか。

だれもが、自然にはじめていませんでしたか。
だれもが、自由に楽しんでいませんでしたか。

小ちゃなあのころの、無理のない動きよ、カムバック。
だって、だれもが、自然すぎる動きであったはずです。

しかし、現実は、そうそう甘いものじゃありません。
無理です。

その一番の障壁は、何でしょうか。

体力のおとろえ?
老化?
柔軟性の低下?

いえ、それこそが「意識」の存在なんじゃないでしょうか。

 



 

意識は、かえられる

 

他人を、かえることはできません。
自分のカラダだって、そうそう、かえられません。
日々、老いてゆくばかりです。
生きものの宿命ですから。

ところが、「意識」だけは、別モノです。
かえることができます。
カタチを、もちませんから。

ですから、意識を、かえてみたらどうなるでしょうか。
具体的には、どうしたら、よいでしょうか。

ここで、しばしばおこなわれるのが、意識の上塗りです。
新しい知識を学ぼう、身につけよう
文字通りの、意識改革です。

学習する。
クンレンする。

ところが、わたくしは、だんだんと、コレができなくなってしまいました。
正直申せば、これが老いかもしれません。
しかも、一枚上塗りしたって、どーよね、という思いももつに至っています。

逆に、そういうものを、一枚一枚、はがしてみたらどうだろうと思うようになりました。
できるだけ、シンプルに。
できるだけ、単純に。

意識を、加えてゆくのではなく、はがしてみる。

その過程で、見えてきたのが「無意識」の存在でした。

意識の層をはがして、無意識の存在に出会ってみたい。
その原体験が、走りです。
なにしろ、走るというのは、単純ですから。
前にすすむだけ(遅くてもすすんでいます)。
そして、走ってゆくと、いろんな意識をはがしてゆける(気がする)。

余分なことを、考えすぎない。
重装備化から、離れる。

すると、同じ見方を、もっと別のコトにももっていけるんじゃないか?
もってゆけそうです。
おもしろく、なってきました。

 



 

たーさん
はがすこと から見えてくる 世界もある

 

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