見捨てない
長距離走後半におそわれる、身もココロも「尽きた」感覚。
いえ、尽きる感覚は、長距離走だけではありません。
仕事に、人生に、人間関係に、どこにでも。
ふり返ってみれば、尽きてばっかり。
でも、ちょっと待ってください。
走るとき「だけ」は、尽き方がちがう気がします。
日常茶飯事に遭遇する「尽きた」状況。
これには、「もうイヤになっちゃった」感が支配します。
で、イチ抜けた。
もー、やめよ。
ムリ、ムリ。
これは精神論的には、ひじょうに、まっとうな判断だと思います。
そういうときは、休みましょう。
休息と、気分転換が必要です。
ところが、レース中は、「イヤになっちゃった」ではありません。
ただ、カラダがまいってしまっただけ。
気持ちが、折れかかってきただけ。
可能であれば、走りつづけたい。
そんな思い、神サマは、見捨てません。
わたしが、神サマであったなら。
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ある気づき
しつこくて申しわけございませんが、走りつづけてゆくと、あるものが顔を出してきます。
「尽きる」感覚。
もうダメェ、ヘロヘロ。
もちろん、全員ではありません。
わたしのように、体力も根性もないランナーだけでしょう。
それでも、気持ちを切らさなければ、なんとか走りつづけられます。
あるいは、歩くことはできる。
不思議な感覚でした。
走りの「尽きた」感の正体を、みつけてみたい。
そして、ついに思いあたるところに至ったのです。
尽きる正体は「意識」なんじゃないかと。
自分の意識が、「走りを止めたらどうか」と訴えてくるのです。
ひきとめる、という表現でもいいかもしれません。
これ以上の無理は、よくないと感じるよ。
だから、止まりましょう。
そう、自分を導いてくれるのです。
改めて、意識を意識するようになりました。
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意識というありがたさ
意識は、大切です。
なにしろ「意識がない」というのは、キケンだからです。
あ、おきているのに、という状況下ですが。
救急車から運ばれてきた患者さんに、意識がない。
スワッ、一大事、と周囲に緊張感がはしります。
走っている最中だって、同じです。
意識がなくては、走っていられません。
しかも、いい走りには、いい意識状態が大切、と思われています。
しっかり、意識して走れよ、といわれませんか。
何を意識するんでしょうか。
脚の上げ方とか。
足のつき方とか。
ウデの振り方とか。
体幹の姿勢のもってゆき方とか。
呼吸の仕方とか。
ピッチの刻み方とか。
まあ、世に走り方の「ウンチク」に限りはございません。
まこと、ありがたい世の中です。
むかしのひとは、そんなこと、一切感知せずに走っていたのでしょうから。
ありがたき時代。
でも、そこにキュークツさを感じることはなかったですか。
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尽きて、意識も尽きてゆく
走りつづけてゆくと、「意識」も薄まってゆく。
ウルトラマラソンの中で、感じるようになったことです。
ただ、意識が薄まるだけでは、危険です。
そのまま、倒れこんでしまいます。
意識にかわって、別のモノが、顔を出してくるんです。
別のモノとは、何でしょうか。
それは、「無意識」じゃないか。
これが、走りつづけるという状況の中でしか味わえない、特殊な出会いです。
走りつづけてゆくと、「意識」から「無意識」の世界へ、切りかわってゆく。
わたくしの、いきついた結論です。
では、無意識って、何でしょうか。
かんたんには、眠っている状況です。
そんなわけでは、ありません。
眠っていたなら、走っていられません。
走っているときの、特殊な無意識になるのです。
決して、カラダも意識も休眠状態に入ってゆくわけではないんです。
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無意識の正体
意識がないのが、無意識。
そういう単純なハナシじゃありあません。
じつは、わたしたちの生命活動の根源は、無意識です。
生命活動は、無意識の活動で支えられています。
こっちの意味での、無意識です。
たとえば、の例をあげてみます。
心臓は、収縮と弛緩を、無意識にくり返しています。
肺は、すうとはくを、無意識にくり返しています。
たべたものは、胃腸が、無意識に消化・吸収していってくれています。
体温は、無意識に36℃くらいに保ってくれています。
こういうのは、みんな「無意識」の世界でおこなわれています。
いちいち、意識しなくても、大丈夫という意味です。
だから、寝ているときも、安全です。
意識しなくてはペースが保てないなら、眠っちゃったら、オシマイです。
眠ってしまったら、そのまま、ナムナムです。
生命現象の基盤は、このように、無意識の領域です。
「生命現象の無意識」を、あまくみてはいけません。
意識は、その上に、ちょこんと乗っているだけ。
ああ、脈打ってるな。
ああ、呼吸しているな。
氷山にたとえれば、水面に顔を出しているのが生命の意識。
水面下に、大きな塊となっているのが、生命の無意識。
無意識なしに、意識はありえません。
現代人は、意識のなかで、走ろうとしていませんか。
走り方を、教わる。
他人をみて、まねようとする。
ところが、走りつづけていると、だんだんと意識の部分が消えかかってゆく。
すると、無意識の領域にあった走りが、顔をだしてくる。
同時に、カラダの動きや感覚が、変化をはじめる。
本能としての走りを感じはじめる。
それが、一種の恍惚感となるのではないでしょうか。
無意識の世界の走りを、さぐってみたい。
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