「状態」という視点

アホゆえ

 

わたくし、アホです。
はい、ちゃんと自覚しています。

教科書をよんで、そのままスラスラと、内容が入ってきません。
自分の脳ミソというフィルターを通らないと、ダメみたいです。

ゆえに、漢方薬も、意味がわかりませんでした。
とくに、むつかしい理論には閉口しました。
かなわない。

ところがです。
状態」という目線でとらえられるのでは、と考えてからかわりました。

いまは、「A」という状態にある。
それを、「B」という状態になってほしい。

超特急で、かわってほしい。
ゆっくりと、変化をみせてほしい。
いや、かわってゆかないでほしい。

そのためには、どんな生薬が役立つかな。
その組み合わせの、試行錯誤。

結果、できあがっていったのが、今にのこる漢方。
(あくまで、わたくしの個人的見解)。

 



 

いろんな状態

 

わたしたちは、くらしの中で、いろんな「状態」をもっています。
それを、どうしたいか。

モノがたべられない、たべたくない状態
それを、スムースに、おいしくたべられる状態にならないか。

イライラ、カアー、となっている状態
それを、スカンと、力のぬけた状態にできないものか。

寝入っても、すぐに目がさめてしまう状態
それを、ぐっすり寝られる状態にできないか。

シモヤケで、指の先が冷たくていたがゆい状態
それが、ホカホカ、あったかい状態にできないか。

2日酔いで、オエオエ気持ちが悪い状態
それを、スッキリさわやか気分状態にできないか。

爪がガサガサ、先ボロボロの状態
それが、ツヤツヤきれいな状態にならないものか。

3キロを走ると、息絶え絶えになってしまう状態
それを、スッキリ感をもって走りきれる状態へ。

ムカシのえらい感性の方々は、これらひとつひとつに、何がいいかを試していってくれたのです。
たぶん、気の遠くなるような時間と試みの中で。
その集大成のひとつが、いまのかたち。
おそれいります。
温故知新

 



 

「状態」でみる習慣

 

考えてみれば、わたくし、「状態」でみるのが好きだったのかも知れません。

まず、「今の状態」をみてみます。
そして、この状態でいいのか(維持)。
あるいは、別な状態がいいのか(変化)。

そのときどきの「状態」のとらえる主体は、「感覚」でした。
気分、とか、気持ちのようなもの。
なかなか、客観的には表現しにくいニュアンス。

たとえば、これを「客観視」しようとしたら、どうでしょうか。
たとえば、「数値」でみようとすること。

この方が、わかりやすい。
共有も、しやすい。
支持されやすいかもしれません。

ランナーでいえば、「記録」という状態。
何時間何分何秒で、走れるんですよ。
これが、1秒でもはやい状態に変化させてゆくことが生きがい、とか。

そういう世界は、しっかりあります。
とくに、若いランナー、あるいは競技で生きるランナーの世界。

でも、それ以外の視点でみる世界だってあるはずです。
数値ではない、もっと別の世界。

 



 

因数分解、わかりません

 

因数分解がわからない。
これが「今の状態」としてみます。

教科書の因数分解の例題、5つだけはできる状態。
これを「例題レベルの状態」としてみます。

さらに、教科書の練習問題、10題ができる状態。
これを「問題レベルの状態」とよんでみます。

そして、入試問題集が、解ける状態。
これは、「入試レベルの状態」です。

1枚のコピー用紙に、1題の問題と答えを書きます。
例題レベルなら、5題だから5枚。
この5枚をくり返して、サッとできるまで何度も挑戦。

次に、問題レベルの10問も、同じ要領でアタック。
それ以上は、欲ばらない。
すすまない。
でも、これだけは完璧にくり返す。

こんな単純なことでも、だんだんと展望が変わってくるものです。
あれ、いつ間にか、アタマの回路が切り変わってきている感覚。
うれしい。
数値化は、できないけれど。

つねに、上を、上をじゃない状態。
山の途中の、展望のきく場所、といった状態。

というようなことを、やってきました。
自己流です。
塾なんてものも、なかった田舎ですしね。

学生時代、小学生、中学生、高校生の家庭教師をしました。
同じ要領の方法。
評判は、よかったです。

ま、いまはタブレットとか、パソコン画面が相手の時代。
同じには、できないかな。
完全に、のり遅れていますか。

といって、新車にのり替えよう、という気はありません。
タブレットで、大丈夫?

 



 

振り返ってみると

 

ズッコケる、ということが、しばしばあります。

いや、しばしばなのか。
いつものことじゃないか。

そのズッコケには、ある法則が支配していた、ということに気がついてきました。
いまの「状態」をみていない。
むかうべき「状態」がみえていない。

つまり、「状態」というアタマが消えているときの行動。

逆のときもあります。
いまの状態」は、こうだな。
そして「こういう状態」をめざしたいな。

こういう中にいるときは、必ずしもそうならなくても、トンデモな状況には入ってゆかなかったような気がします。

対象が、体調でも、お仕事でも、走りでも、お掃除でも、なんでも。

朝のランニング。
こういう状態で帰ってこられたらいいな、というような走り方。
そこを意識しながら、試行錯誤してゆく、というたのしみ。
数値で、計らない。
状態を感じる走り方。

衰える一方の人生、そういうたのしみ方を、つづけたいです。

 



 

たーさん
状態で 見るクセもって 半世紀

 

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