ノコギリ文化と、力の使い方

ノコギリ分類

 

ノコギリは、大別すると2つあるのをご存知ですか。

おして」切るノコギリ。
ひいて」切るノコギリ。
この2種類です。

おして切るノコギリは、歯がギザギザの前面についています。
なので、おし出したときに、刃があたります。
それによって、木が切れる。
おもに、西洋式のノコギリです。

ひいて切るノコギリは、刃が手前面についています。
なので、ひいたときに、刃があたります。
それによって、木が切れる。
日本のノコギリは、これです。

ですから、わたしたちは、当たり前のようにノコギリは、ひいて切っています。
おしたときは、切れない。
この使いわけをまちがえると、木は切れません。

 



 

 

おす文化、ひく文化

 

文化は、おもしろい性質をもっています。
その中にいるヒトを、その文化色に染めあげてゆく。

西洋文化は、「おす」文化です。
(ひじょうに大胆な簡略化ですけど)
おす」行動が、基本。

なにしろ、広大な土地の中ではぐくまれてきた文化です。
まわりから入ってきたモノを、おし出す必要も生じる。
なので「おし」が強い(ような気がする)。
なので、「おす」文化が形成されてくる。

ですから、西洋ノコギリは、「おして」切れるようになったのでしょう。
(勝手な妄想ですいません)
というのも、これはノコギリに限りません。

たとえば、電気掃除機
西洋式は、「おす」ときに吸引力が機能します。
いえ、電気掃除機にかぎりません。
モップや、デッキブラシも、「おし」ことで機能します。

だって、おして切る。
フェンシングや、剣もそうです。

一方で、和の文化は、「ひく」文化でした。
「ひく」動作が、基本。
島国なので、まわりは身内です。
主張より、ひかないと、くらしにくい。

ですから、日本のノコギリは、「ひいて」切る。
電気掃除機だって、ひいたときに吸引力がます。
ホウキも、「ひいて」はき集める。

日本刀は、ひいて切る。

 



 

おす力、ひく力

 

おすのと、ひくにと、どちらが優秀か。
あるいは、優位性があるか。
というような発想は、不毛でしょう。

どちらだって必要ですし、どちらだって活用次第です。
どちらかに固執するのは、もったいないし、本質を見失います。

ただし「力」という面からみてみると、それぞれの特徴がでるようです。
「おす」方が、力がいる。
「ひく」方が、力は小さくてすむ。
あくまで、一般論ですけれど。

たとえば、ノコギリ。
おして切るノコギリは、力が必要です。
グーんとノコギリに力をこめないと、なかなか切れない。
なので、ノコギリ自体も、ガンジョーに造られています。

そのかわり、大きな木がガッツリ切れるとのことです。

ひくノコギリは、おすのより小さな力で切れます。
ですから、ノコギリ自体への負荷も少ない。
なので、薄く作っても、実用になります。

これは、模擬実験をすることができます。
お豆腐と、コピー用紙を用意してみます。

お豆腐に、コピー用紙を縦にあてて、おしてみます。
西洋ノコギリで、お豆腐を切るように。
結果は、コピー用紙が、フニャリとなるだけです。

では、同様にお豆腐にコピー用紙をあてて、手前にひいてみます。
お豆腐に、スッと切れ目が作れるでしょう。

 



 

体力問題

 

おす方が、力をだしやすい。
のかも、しれません。
十分な検証は、していませんけど。

ただし、そのためには、ある前提が求められそうです。
相応の「力」を発揮させるためには、相応の「力」が必要なんですよ、という。

力がないと、おす機能はだせないのです。

ですから、おす文化圏では、「筋トレ」も発達していますね。
おす力を利用するには、おす力を秘めていないとコケてしまうからです。
あるいは、もともと体力や筋力のあるヒトの発想です。

だからなのか、西洋人て、ガッシリしていますね、何もかも。
つまり、ガッシリしているからこそ生まれた文化なのかもしれません。

となると、ここで問題が生じてきてしまいます。
たとえば、このわたくし。
生物学上は「おす」に分類されてはいますが、「おし」には弱いです。

年とともに、ますます弱くなる一方。
もちろん、筋トレなんか無理無理。
となると、おす文化は利用しがたいか。
少ない力でどう生きてゆけばいいんですか。

 



 

身体問題と、ノコギリ

 

わたしたちは、いろんな身体関連の指導を受けます。
学校生活では、「体育」があります。
年をとっても、生き生き体操。

走り方にしても、さまざまな媒体をとおして学べます。

これらの基本は、西洋から入ってきた文化です。
明治維新から、脈々と受けつがれている伝統文化

そうです、先に「和の文化」という表現をつかいました。
ただしそれは、明治維新以降、雲隠れしているんです。
日本だから、和の文化が生きづいている、というのは誤解です。

だって「体育」でさえ、いまや「スポーツ」ですからね。
もう漢字じゃなくなっています。
西洋コトバをそのまんま、カタカナであらわしただけです。

スポーツの精神は、西洋文化です。
つまりは、根底には「おす」思想が、じっくりと根づいています。

そういう視点で、スポーツを見てみませんか。
マラソンしかり。
ラグビーしかり。
サッカーしかり。
野球しかり。

ええっ、ボールを投げるのも「おす」文化ですか?
よくみれば、おす動作になっています。
手裏剣とは、ちがいませんか。

おす」文化。
ひく」文化。
じつは、わたしたちは、この両方をまだ味わえる土壌にくらしています。
なんて、幸せな境遇。

この動作や行為は「おす」動きか?
ひく」動きか?
いまは「おして」いるか。
ひいて」いるか。
こういう目で、あらゆる行為を見なおしてみるのも、有益かもしれません。

で、おして走っていますか?
ひいて走っていますか?

 



 

たーさん
機序がちがうよ おす力 ひく力

 

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