不可能が可能だった時代
現代は進化している、と思われているかもしれません。
ところが、逆のことをあげれば、キリがありません。
ノミとノコギリとトンカチで、壮大な神社仏閣を造りあげる。
息をのむような精巧な彫りと造形で、工芸品を仕上げる。
東京-京都間を、急げば3日ほどで走っていってしまう。
60キロの米俵を、両手にもって運んでしまう。
かつては、実際にあった事実です。
なぜ、そんなことができたのでしょうか。
「そういうものだ」という発想があったのかもしれません。
忍者も、 SFの仮想世界の職業ではありません。
実際に、いた。
そして今、本書によって、現実世界に見いだされたのです。
場所は、東京、立川。
大倉多門の人生
立川の古い中華料理店「北京楼」のひとり息子である大倉多門。
稼業はつがずについた仕事は、とんだブラック企業でした。
心をやんだ多門は、仕事をやめて、実家の2階に引きこもりの毎日。
そんなおり、父が病にたおれ、家に大きな借金があることが発覚します。
そのカタに、多門は、同じ町の高級住宅街にある藤村家の高校生、藤村杏子の婿入り見習いとして、藤村家に入ることになります。
ところが、入ってビックリ仰天。
藤村家は、伊賀の流れをくむ忍びの一族であることを告げられます。
当主で、杏子の祖父である源吉は、厳格な忍術使い。
いいなずけの杏子も、JK忍者、かつ元地下アイドル。
その母親は、黒装束に身をまとう、神出鬼没のなぞの人物。
庭には、山王丸という巨大蛙がいて、町のなかではトヨタのセダンに化けて疾走する術をもつ。
現在、第2巻まで刊行中。
1巻は、角川文庫にも入りました。
忍者とアイドルの交錯する謎の家で、無職の多門は、やがて忍者ビジネスを課せられてゆきます。
忍術を活用して、こまった人を助ける。
料金は、依頼人の1ヶ月分の収入。
サラリーマンなら月給、学生はお小遣い。
安易に頼める値段ではありません。
忍者の流儀
チチンプイプイ、の呪文一発で事件を解決、なんて都合のいい話は現実的ではありません。
現実は、もっとぜんぜん地味です。
そして、まだまだアナログ世界。
時間をかけ、手間暇をかけ、対話のなかで解決の糸口を見つけてゆく。
ひとつの依頼に翻弄されながら、しかし多門は、少しずつ新しい生き方を学んでゆきます。
なにか、忘れてしまっていた世界かもしれません。
「忍びは、2つの目を持たねばならん。鵜の目、鷹の目だ」
「力を以って力を制するのは、これ下等なり」
「人生最後は一人だが、手を借りる相手を選ぶことはできる」
「忍びの術は、理詰めで積み上げてゆくのが基本だ」
「人が生きてゆくためには、多くのものが必要だ。だが、心が生きてゆくためには、ただ一つのことがあればいい。間違ったことをしないという、確かな誇りがあればいいんだ」
「忍びは、人の体について、詳しく知っていなければならない」
「走りには、大きく分けて2種類あります。私たちは、遠駆けと早駆けとよんでいます」
本文中にでてくる教えは、そのまま今のわたしたちにも通用しそうです。
便利な世の中だからこそ
わたしたちは、無意識にでも便利さを求めています。
田舎と比べれば、便利さは都会にかないません。
お金のあるなしを考えれば、ある方が便利です。
迷いごとは、スマホで解決。
気がつけば、究極の便利さは自分の「カラダとアタマを使わずにすむ」くらしという流れにのってしまっていたかもしれません。
ああ、楽だ。
そして、一度味を知ってしまった便利さは、なかなか手放せません。
ところが、ある日、気づきます。
便利さにつかっている間に、カラダもアタマも、使えなくなってきてしまっていることに。
これでいいんだろうか。
あえて、逆行
道具の進歩。
情報システムの進歩。
流通の進歩。
自分の「外」の世界の進歩に乗っているあいだに、自分自身をさびつかせてはいますまいか。
その結果、昔のひとがアタリマエにできたことが、できなくなっているとしたら。
これも「進歩」の範疇にいれていいんでしょうか。
だから、みなさん、走っているんですよね。
走ることは、自分自身のカラダとココロに直に結びつく行為ですものね。
自分のカラダとココロを置き去りにして、何か残ってゆくものものでしょうか。
自分のカラダとココロが、本当の資産です。
忍者というと、修行というイメージがあるかもしれません。
でも、本当は自分との対話なんですね。
そして、人間観察。
この本を読むと、忍者生活も悪くはないかも、という気になります。
いえ、忍者的生活、ということです。
自分のカラダとココロを大事にする生活。
新しい発見、があります。
不可能は 自分でつくる 壁かもね
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