どっちが、エライか?
ホンモノと、ニセモノはちがう。
当たり前です。
どちらに価値があるか。
聞くもヤボな質問です。
本家に決まっています。
とはいえ、ニセモノにも、ニセモノの価値があります。
たとえば、わたしの発想でまず思い浮かぶものは、食品サンプルです。
昔は、食堂の前には、メニューの模型が並んでいました。
ラーメンは、ラーメンらしい模型。
親子丼は、親子丼らしく。
なかなかリアルな作品で、湯気さえ立っていそうな臨場感もありました。
ところが、実際に出てきたものを見ると、ビミョーにちがう。
あれ、ナルトの数が少ないようだけど。
麺の量が、サンプルほど入っていない。
今は、そういった食品模型も見なくなりました。
実物の写真が並んでいるだけ。
正確さはアップしましたが、どこかさみしい。
中高年の哀愁です。
なにしろ、ホンモノとニセモノの差がありすぎると、突っつかれる世の中ですから。
余裕がなくなってきた、というか。
でもです、今回は、そのニセモノに焦点を当てたいと思います。
![](https://hikyaku-bashiri.com/wp-content/uploads/2020/11/3618464_m-1024x731.jpg)
正しいばかりが、正道じゃない
求めるべきは、正確さ。
追求するべきは、ホンモノ。
たしかに、そうです。
では、自分の走りはどうでしょうか。
自分の走りを、どこまで客観的に、正しくつかめていますか。
わたしの場合、むつかしい。
ほぼできていない、というのが、正直な感想です。
というのも、自分の走りを客観的に、見られないからです。
イメージでしか、もつことができません。
イメージですから、信憑性は、なかなか乏しい。
ラーメンと、ラーメン模型の比どころではありません。
まさしく、都合の良い虚像、ニセモノです。
なぜなんでしょうか。
ラーメンも、ラーメン模型も、実際に見ることができます。
ですから、しようと思えば、並べて比較もできます。
ところが、実際の走りすら、客観的に見ることはできません。
走りのイメージにいたっては、どのようにしたって、見ることができない。
だって、イメージですから。
そんな2つを、どう比較できるのでしょう。
![](https://hikyaku-bashiri.com/wp-content/uploads/2020/11/1261164_m-1024x683.jpg)
実像すら、むつかしいもの
世の中には、実際に存在しながら、ナゾにつつまれているものが、たくさんあります。
その実像はどうなってんの?
実際にあるなら、わかるはず。
ところが、わからないことがたくさんあって、というのが少なくないんです。
リアルタイムな身近な存在として、新型コロナウイルスも、その1例でしょうか。
新型コロナウイルス、という存在は、実際にあります。
あると思います。
ちゃんと、電子顕微鏡で、つかまえられています。
遺伝子構造も、解明されてきました。
実像として、みられる。
では、そのコロナちゃんは、ひとのカラダに入ると、どうしてゆくのか。
どこで、何をするのか。
ふつうのカゼウイルスは、免疫クンにこわされて、消えてゆくだけです。
ところが、コロナちゃんは、居残ってはいないか。
たとえば、血流にのって、血管の壁の中とか。
神経の細胞の中とか。
どこで、何とくっついて、何を破壊して、何をしているのか。
わからないことは、まだ、山ほどある。
そういう相手に、ワクチン一発で、ケリがつくと思うんですかね。
さすがに単純思考すぎないかなあ。
あれだけ究明されてるインフルちゃんのワクチンだって、そんなもんでしょ?
![](https://hikyaku-bashiri.com/wp-content/uploads/2020/11/3950007_m-1024x683.jpg)
わからないとき
実像が、よくわからない。
実像を追求しようとしても、つかみがたい。
なので残念、お手上げ、ではありません。
現実は、現実として、わからないのを認めるのはいいでしょう。
でも、取り組み方は、ひとつではないはずです。
こういう発想は、踏まれているヒトの方が、強いでしょうか。
実像が、よくわからない。
もちろん、こんなときでも、なお実像を追求する姿勢は大切です。
ここを手放しては、道をふみはずす危険性がまっています。
でも、というか、だからこそ、ニセモノの方からアプローチしてみる。
ニセモノ、という表現は印象をそこないますか。
イメージ像、といいかえてみましょうか。
イメージ像を、大切にしてみる。
イメージ像を、ふくらましてみる。
自分の走りのイメージ像を、描いてみます。
たとえそれがホンモノから離れていても、かまいません。
どんなふうに、走っているかな?
すると、いろんな場面が回想されてこないでしょうか。
調子がいいときの走り方。
違和感や苦しさを感じる走り方。
故障につながった走り方。
![](https://hikyaku-bashiri.com/wp-content/uploads/2020/11/264951_m-1024x681.jpg)
1対多数
調子がいいときの走り方。
案外、このパターンは、決まっていませんか。
それは、まさに「ツボにはまった」走り。
自分の、自分による、自分のための走り、ができているとき。
うん、リンカーンさん風に、表現してみました。
調子がいい走りって、ほほ一通りではないでしょうか。
一方で、調子がよくないと感じた走り。
つまり、違和感をかかえての走り。
苦しさと努力感がないとできない走り。
こっちは、多様性をもってはいませんか。
足のはこび方。
ペースのつくり方。
意識のもち方。
シューズの選択。
多様性があるから、サマザマなランニング障害が生まれるのではないでしょうか。
足を痛めた。
フクラハギがピキんときちゃった。
膝の周辺に力を入れられない。
太モモが張って走れない。
まさに、「1対多数」の関係。
ですから自分には向かなかった多数が、「自分なりの走り方」に収束してゆくと、気持ちよくなる。
こんなイメージが作れたら、幸せじゃないでしょうか。
実像も大事ですが、まずはイメージ像から入ってみる。
これこそが、ランの基本なのかも。
![](https://hikyaku-bashiri.com/wp-content/uploads/2020/11/3874229_m-1024x683.jpg)
![](https://hikyaku-bashiri.com/wp-content/uploads/2018/11/76f3e759415ad1690bfae003ac05144c-e1542443258483.jpg)
イメージで ふくらませたい いい走り
↓ よろしければ、清き1票をお願いします(1日ワンクリック有効)
![にほんブログ村 その他スポーツブログ マラソンへ](https://b.blogmura.com/sports/marathon/88_31.gif)
にほんブログ村