ニセモノだって、価値がある

どっちが、エライか?

 

ホンモノと、ニセモノはちがう。
当たり前です。

どちらに価値があるか。
聞くもヤボな質問です。
本家に決まっています。

とはいえ、ニセモノにも、ニセモノの価値があります。
たとえば、わたしの発想でまず思い浮かぶものは、食品サンプルです。

昔は、食堂の前には、メニューの模型が並んでいました。
ラーメンは、ラーメンらしい模型。
親子丼は、親子丼らしく。
なかなかリアルな作品で、湯気さえ立っていそうな臨場感もありました。

ところが、実際に出てきたものを見ると、ビミョーにちがう。
あれ、ナルトの数が少ないようだけど。
麺の量が、サンプルほど入っていない。

今は、そういった食品模型も見なくなりました。
実物の写真が並んでいるだけ。
正確さはアップしましたが、どこかさみしい。
中高年の哀愁です。

なにしろ、ホンモノとニセモノの差がありすぎると、突っつかれる世の中ですから。
余裕がなくなってきた、というか。
でもです、今回は、そのニセモノに焦点を当てたいと思います。



 

 

正しいばかりが、正道じゃない

 

求めるべきは、正確さ。
追求するべきは、ホンモノ。
たしかに、そうです。

では、自分の走りはどうでしょうか。
自分の走りを、どこまで客観的に、正しくつかめていますか。

わたしの場合、むつかしい。
ほぼできていない、というのが、正直な感想です。
というのも、自分の走りを客観的に、見られないからです。

イメージでしか、もつことができません。
イメージですから、信憑性は、なかなか乏しい。
ラーメンと、ラーメン模型の比どころではありません。
まさしく、都合の良い虚像、ニセモノです。

なぜなんでしょうか。
ラーメンも、ラーメン模型も、実際に見ることができます。
ですから、しようと思えば、並べて比較もできます。

ところが、実際の走りすら、客観的に見ることはできません。
走りのイメージにいたっては、どのようにしたって、見ることができない。
だって、イメージですから。

そんな2つを、どう比較できるのでしょう。

 



 

実像すら、むつかしいもの

 

世の中には、実際に存在しながら、ナゾにつつまれているものが、たくさんあります。
その実像はどうなってんの?
実際にあるなら、わかるはず。
ところが、わからないことがたくさんあって、というのが少なくないんです。

リアルタイムな身近な存在として、新型コロナウイルスも、その1例でしょうか。
新型コロナウイルス、という存在は、実際にあります。
あると思います。
ちゃんと、電子顕微鏡で、つかまえられています。
遺伝子構造も、解明されてきました。
実像として、みられる。

では、そのコロナちゃんは、ひとのカラダに入ると、どうしてゆくのか。
どこで、何をするのか。

ふつうのカゼウイルスは、免疫クンにこわされて、消えてゆくだけです。
ところが、コロナちゃんは、居残ってはいないか。
たとえば、血流にのって、血管の壁の中とか。
神経の細胞の中とか。
どこで、何とくっついて、何を破壊して、何をしているのか。

わからないことは、まだ、山ほどある。
そういう相手に、ワクチン一発で、ケリがつくと思うんですかね。
さすがに単純思考すぎないかなあ。

あれだけ究明されてるインフルちゃんのワクチンだって、そんなもんでしょ?

 



 

わからないとき

 

実像が、よくわからない。
実像を追求しようとしても、つかみがたい。

なので残念、お手上げ、ではありません。
現実は、現実として、わからないのを認めるのはいいでしょう。
でも、取り組み方は、ひとつではないはずです。
こういう発想は、踏まれているヒトの方が、強いでしょうか。

実像が、よくわからない。
もちろん、こんなときでも、なお実像を追求する姿勢は大切です。
ここを手放しては、道をふみはずす危険性がまっています。

でも、というか、だからこそ、ニセモノの方からアプローチしてみる。
ニセモノ、という表現は印象をそこないますか。
イメージ像、といいかえてみましょうか。
イメージ像を、大切にしてみる。
イメージ像を、ふくらましてみる。

自分の走りのイメージ像を、描いてみます。
たとえそれがホンモノから離れていても、かまいません。
どんなふうに、走っているかな?

すると、いろんな場面が回想されてこないでしょうか。
調子がいいときの走り方。
違和感や苦しさを感じる走り方。
故障につながった走り方。

 



 

 

1対多数

 

調子がいいときの走り方。

案外、このパターンは、決まっていませんか。
それは、まさに「ツボにはまった」走り。
自分の、自分による、自分のための走り、ができているとき。
うん、リンカーンさん風に、表現してみました。

調子がいい走りって、ほほ一通りではないでしょうか。

一方で、調子がよくないと感じた走り。
つまり、違和感をかかえての走り。
苦しさと努力感がないとできない走り。

こっちは、多様性をもってはいませんか。
足のはこび方。
ペースのつくり方。
意識のもち方。
シューズの選択。

多様性があるから、サマザマなランニング障害が生まれるのではないでしょうか。
足を痛めた。
フクラハギがピキんときちゃった。
膝の周辺に力を入れられない。
太モモが張って走れない。

まさに、「1対多数」の関係。
ですから自分には向かなかった多数が、「自分なりの走り方」に収束してゆくと、気持ちよくなる。
こんなイメージが作れたら、幸せじゃないでしょうか。

実像も大事ですが、まずはイメージ像から入ってみる。
これこそが、ランの基本なのかも。

 



 

たーさん
イメージで ふくらませたい いい走り

 

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