便利ですが
はじめに、コトバありき。
コトバは、大切です。
コトバが足りませんと、いきちがいが、生じます。
いい関係も、わるい関係も、いつもそこにはコトバが介在しています。
コトバは、脳ミソの量なんかよりも、重要です。
コトバは、性格よりも、重要です。
だから、コトバが最初に置かれるのでしょう。
それゆえ、コトバを粗末にあつかっては、いけません。
コトバは、慎重に選ぶように。
なんたって、コトバは、人間性の反映そのものだからです。
先人も、コトバの大切さを、さまざまな表現でくり返しています。
ごもっともです。
わたしなぞ、穴があったら入りたいです。
いつも、コトバが足りず、申しわけございません。
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解放
コトバにしばりつけられるな。
コトバをしばりつけるな。
一点、かわった発想も、しかしあります。
大切、大切といわれちゃうと、でもホントのところはどーなの?と考えちゃうからです。
たしかに、コトバは、固定化を生む、ということがおきやすいですから。
目の前のワンコを、「犬」というコトバでとらえます。
すると、犬は犬になります。
赤ちゃん時代も、犬。
元気な若い時代も、犬。
老いて、ヨボヨボしても、犬。
いつだって、犬のイメージ。
犬だけじゃなくて、人間も同じかも。
人間には、名前という固有名詞があります。
その名前は、一生ついてまわります。
赤ちゃんのときの名前。
学生時代の名前。
大人になってからの名前。
老いてあとの名前。
いつも、その名前というコトバのイメージがついてきます。
そのイメージは、生涯を通じて、そうそう変わるものではありません。
名前という「ワク」でかこわれる。
ああ、あのヒトね。
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改めて
コトバにしばりつけられるな。
コトバをしばりつけるな。
こういう発想も、いいなと思います。
もちろん、わたくしの主張ではありません。
おっしゃったのは、老子です。
老子さんは、さらにつづけます。
確かなものに、すがろうとするから、不安になるのだよ。
あやうさを生きなさい。
あやうさの中から、この豊かな世界が生まれたのだかえら。
そうなんですか。
わたしたちは、つい確かなものに、すがりつきたくなっちゃうんです。
そうしなさい、という風潮も高いですし。
たしかなものを、「レジデンス」なんていうことがあります。
いえ、ちがいます「エビデンス」でした。
確かなもの、主流なるものが、正しい。
そんなもの、ふん、ふん、ふん、という生き方も、いいなあ。
といって、あやうさは、不安にならないでしょうか。
あやうさ、というのは、「定まらない」という立場ですから。
そうしたら、老子さんは、なぐさめてもくれます。
心配ない、感性をゆたかにすれば、いいんだよ。
自分の内なる声にしたがえばいいんだよ。
決めつけない。
つまり、ひとつの価値観にしがりつかない。
自分にスナオになれば、いいんですね。
自分に向きあえば、いいんですね。
不安定を不安がるんじゃなく、たのしんじゃおう。
不安定さこそが、豊かな世界を産むのだから。
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コトバから、ちょいと離れて
あー、しなさい。
こー、せえよ。
そういったコトバによる「道すじ」から、離れてみる。
自由になってみる。
走りの世界も、そうしたっていいのかもです。
ひと様の意見は、そこに置いておく。
自分の感覚で、走ってみる。
不安定さがあっても、気にしないで。
もう少し、歩幅を広げてみたらどうかな。
逆に、せばめてみたらどうかな。
ウデの振りを、前に大きくしたらどうかな。
後ろに大きくしたら、どうかな。
それとも、ウデ振りはもう忘れておいたらどうだろう。
というような世界を、コトバじゃなくて感覚で感じてみる。
そして、自分の気持ちのいい方へすすむ。
たとえ、それが世間のジョーシキから、ズレていたとしても。
走りって、規定演技じゃありませんから。
自由種目ですから、何でもありかと。
だれのためでもない、自分のたのしみだし。
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会得
かつて、野球の巨人軍に、長嶋監督がおられました。
もと、名三塁者。
長嶋監督の指導は、有名でした。
たとえば、打撃のアドバイス。
「こうまって、タマがきたら、サッと打てばいいんです」
メチャクチャじゃん。
そんなんで、打てるようになるわけないじゃん。
指導者として、ドーなの?
そんなことを思ったこともありました。
それが、いま思いかえすと、これってコトバの指導の否定だったのかな、と。
タマがきたら、打ち返せばいいだけですものね。
なにより、コトバやアタマで理解したからといって、打てません。
自分の感覚にのせるしか、打てません。
感覚は、みんな個人のものですから。
それを、コトバでしばっちゃうと、かえって「会得」のジャマになるかも。
感覚の伝承が、失われつつあります。
伝統芸能や匠の技なんていうのは、感覚の伝承ではありませんか。
感覚は、コトバには、のりにくい。
自分の感覚を、大事にしたいと思います。
気持ちいい。
痛い。
苦しい。
こういう感覚の中に身をおいてこそ、新しい発見がある気がします。
たまには、コトバから離れて、すべてを解放。
感覚の中に没頭三昧。
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教科書は 自分の感覚 それでよし
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