1年の長さ
歳とともに、月日のたつのが、はやくなる。
あっという間の、1年。
明けたと思ったら、いつの間にか、歳末。
こんなことを、口にされる方がおられます。
本当ですか。
たしかに、そう感じる時期もありました。
でも、いまは、そうなっていませんね。
記憶力が低下している、っていうのに、なぜですか。
ひとつは、ランニングをするようになった、からかも。
それに加えて、レースに参加するようになって、さらに。
だって、こんなに走ってきたのか。
ま、わたしの場合は、月間100キロチョビってところですが。
そうそう、こんなレースに参加したな。
準備、そして当日、そのあとのたくさんの思い出。
走ることが日常にあるだけで、こんなにもくらしが、ふくらむ。
1年は、長い。
さらに長くなる
走りが、日常にある。
とはいっても「2日つづけて走らない」が原則だから、週3くらいですけど。
いろんな大会にも参加できた。
ただ、これがそのまま終わっていたら、1年はあっという間かもしれません。
なにしろ、記憶は年々落ちる一方ですから。
みんな忘却の彼方に、消えてゆくだけ。
ところが、そんなささいな日常を、記録にとどめてみる。
わたしの場合、日記帳。
今日、こんなことがあった。
こんな朝ランをして、始まった。
走りながら、こんなことを考えてみた。
走ったレースの感想。
1日なんて、たいしたことは起こりません。
でも、その1日がつながりはじめると、ちいさな物語になってゆく。
すると、だんだんと長編にみえてくる。
日記って、じつにおもしろい。
そんな小さな日記が、今年は22年目に入りました。
シロート走り
もともと、走ることはおろか、運動ともエンのうすい人生前半でした。
過去の栄光、なんてもちろん何もありません。
実績、って何のことですか。
という中で、トツゼン中高年走りに目覚めちゃっただけです。
人生の下り坂にはいってからのスタート。
まさに、いまの日本のおかれた状況に似ている時期から。
ですので、「走りの向上」なんて、ハナから期待できません。
ただ、近所の田畑のまわりを走ってくるだけ。
幸か不幸か、インターネットもなかった時代。
ちかくに、走っているひとなど見なかった時代。
走りの情報なんて、まったく無縁。
走りの本や雑誌の存在すらも知りません。
とうぜん、レース参加なんて、考えにすら浮かびません。
文字通り、ひとりだけの、試行錯誤。
話す相手もいないから、日記帳が相手になっただけ。
記録という先生
走りは、正直です。
カラダが、すなおに反応します。
無理をすれば、カラダにそのまま跳ねっかえります。
でも、無茶もしないと、その先がひらけてこない。
ココロも、考え方も、ずいぶん変えてゆきます。
走るようになって、発想法も変わってゆきました。
「まず1歩」
どんなに長い距離も、いまできることは、1歩を踏み出すだけ。
そんな徒然を、日記にしたためてゆく。
きょうは、こんなカラダの変調を感じたな。
不思議な違和感が、5日ほどつづいたぞ。
坂道を征服すると、腰の感覚と、気分がちがう。
とつぜん、カラダの進み方が楽に感じた。
歳もとるし、変化してゆく自分の中で、
自分の「ワザ」の工夫に目をむけてゆく。
走りの充実感に、力を入れてゆく。
ていねいな走りに、こだわってみる。
とくにひらめいたことや、特別なこと、具体的な走りの記録は、べつにノオトにも書いておく。
これって「ドンドコ進め思想」じゃないよな。
あきらかに「足場固め思想」じゃん。
おかげで、記録はのびません。
でも、長くつづいている(今年で22年目)
この先の目標
走っていると、身もココロもサッパリしてきます。
わくわく体験。
でも、今後は身体のおとろえが加速をつけてくるでしょう。
そんな中。
どうしたら、もっと楽に、自然体で走れるかなあ。
どうしたら、もっと長い距離を走れるかなあ。
そんなことが、アタマの中に占めています、今は。
そして究極には「いつまで走っていられるかなあ」
ですので、同年代のランナーの方との会話は、とても刺激になります。
とくに、ウルトラで出会うような、お互いヘンタイチックなひと。
仮装しているような、ヘンタイさん。
年長者の走り方にも、とっても関心があります。
わが地元には、90をすぎてホノルルマラソン(フル)を走りきった大先達もおられます。
いつまで生きられるかは、だれにもわかりません。
でも、その中で、いつまで走りつづけられるかな。
なにより、いつまで走りのモチベーションをもっていられるかな。
いろいろチャレンジ、したいことばかりです。
知りたいことは、山ほどあります。
そういう世界の中を、走ってゆきたい。
これが走りの、未来予想図です。
ランニング ドリカムに負けじと 第1歩
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