つきつめれば
のこりの人生は、長くはない。
オツムの機能は、低下する一方。
走りも、例外にあらず。
という状況で、どうしたら人生をたのしめるか?
どうしたら、走りもたのしんでゆけるか?
と考えたら、アレもコレも、と欲をかくのは無理・無謀と気づきました。
アレもコレも、にとられる時間もありません。
アレもコレも、とやれるような余裕もありません。
そもそも、アレもコレも、とやれる能力自体がありません。
ふり返ってみれば、わが人生も、単純でした。
学生時代のお勉強もそうです。
自分のノート(カード)に、まとめてゆくだけ。
「塾」というのに、通った経験はありません。
ま、ド田舎で、塾もなかった時代でしたが。
アレもコレも、と手を広げすぎない。
では、どうしたら、道をしぼれるでしょうか。
しぼるんだったら、より本質に向かう道に入ってゆきたい。
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要約力
ひとつの、要約問題があります。
つまり、文章中の本質をぬき出しなさい、という問題です。
たまには、こういうのも、どうですか。
次の文章の要約をつくりなさい、という問題です。
「ビバリーヒルズ高校のピーターズ校長は今朝、職員一同に研修旅行の知らせを告げた。来週木曜、職員全員でサクラメントに行き、新たな教育メソッドに関する会議に参加する。当日は、人類学者のマーガレット・ミードや教育学者のロバート・M・ハッチンズ、カリフォルニア州知事のバッド・ブラウンによる講演も予定されている」。
さあ、どういう要約文がつくれるでしょうか。
必要なポイントは、押さえねばなりません。
となると、何が必要かです。
そして、何が副次的か。
要約という作業は、じつに奥がふかい。
かつて、丸谷才一さんがおっしゃられたと記憶しています。
あるいは、井上ひさしさんだったか。
「子どもには、感想文なんてまだ不要です。
要約文をつくる作業の方が、ずっとためになる」。
ということで、上記の文のひとつの要約例です。
「来週木曜日は、学校が休みだ」。
こういう要約が、つくれるかどうか。
(出典は『エッセンシャル思考』グレッグ・マキューン著、かんき出版)
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走りと生命力
走ってゆく、という行為は、生命力の維持のうえになりたちます。
ぼくらはみんな生きている。
生きているから、走れるんだ。
ちょっと『手のひらを太陽に』風ですが。
生きることがつらくなったら、走りは止まってしまいます。
それは、生命力の警告だからです。
おまけに、生きていない状況では、そもそも走れません。
キョンシーじゃないんですから。
長く走りつづけられない。
それは、生命力の警告が基盤にあるから、というのが、わたくしの見解です。
たとえば、ソファーの上でゴロゴロする。
ここには、早急な生命力への脅威は生まれません。
なので、いつまでもゴロゴロできます。
ゴロゴロな生活を何十年も送ったらどうなる。
そういう長期的な話題は、ここではおいておきます。
では、生命力って、何でしょうか。
というふうに生命力を考えてゆくと、走りの本質まで、考えられませんか?
生命力が維持できる行為は、つづけられるのですから。
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生命力の本質
生命力の本質は、何でしょうか?
じつは、こういう視点の記載は、生物学の本にはあまりみられません。
医学の本でも、真正面から切り込まれていない気がします。
ということで、わたくし流の解釈をさせていただきます。
「生命力とは、血流である」ということです。
わたしたちのカラダには、休むことのない血流があります。
その血流こそが、生命のあかし。
血流が途絶えれば、そこの機能は停止します。
とくに心臓からの血流が途絶えてしまえば、すべての生命現象が停止にむかいます。
脳も機能停止になります。
呼吸も機能停止になります。
それらをあわせて、ナムナムとなってゆきます。
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血流
ちゃんとした血流が、ちゃんとした生命力を運用する。
ですから、ちゃんとした血流があるか、ないか。
この評価は、とっても大切です。
ちゃんとした血流のないところに、ちゃんとした機能の要求は無理です。
ですから、故障した場所は、ちゃんとした血流がない、ということです。
ケガしかり。
ガンしかり。
「炎症」というのは、新鮮な血流障害箇所の現象です。
炎症というのは、5つの徴候が有名です(ガレノス)。
発赤(充血という血流障害)
腫脹(充血という血流障害)
熱感(充血という血流障害)
痛み(血流障害)
機能障害(血流障害)
つまり、すべては「血流障害」がつくる徴候にほかなりません。
また、血流の本体である血液自身だって、ちゃんとしていなければ、なりません。
血が、うすいこと(貧血とか)。
血が、濃すぎること(糖尿とか、脂質異常とか)。
こういう血液でしたら、いくら全身を回ってくれていても、機能不全です。
ですから、カラダの異変の多くを、血液の流れの中で見ることができます。
血を調べることで推定ができてしまいます。
いわゆる、血液検査です。
たくさんの情報を内包して流れているもの、それが血流です。
走っていても、ちゃんと走れなくなってくる。
(最近のわたくしは、最初から、こういう感じですけども)
それはすなわち、血流障害の所見。
それが、アシに見られれば、足の血流が十分じゃない。
それが、呼吸にみられれば、肺の循環が十分じゃない。
逆の見方をすれば、ちゃんとした血流が確保されていれば、まだ走れる。
苦しくならない。
そうだ、血流を「味方」につけよう。
新しい練習法の開発をすすめたい。
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走りとは 血液の流れが 支えるわざなり
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