しなやかさ
上品と、下品という区別があります。
お下品というのは、どんなものでしょうか。
まあ、このわたくしを見よ、といえばすむか。
ここで、ひらきなおっても、しかたありませんけど。
それでは、上品というのはどんなものか。
わたしには、ないもの。
あこがれです。
両者をわけるひとつに「しなやかさ」があるでしょうか。
所作のしなやかさ。
ことば使いのしなやかさ。
対応のしなやかさ。
しなやかさを感じると、そこには上品さがただよっている。
マラソンレースのときにも、上品さを感じるランナーがいます。
チカラ強さとは、ちがいます。
しなやかさで走っている。
見ていて、ウットリ。
優雅です。
目標にしたい。
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しなやかさを生むもの
ここでは、動作のしなやかさを考えてみます。
しなやかさを生む要因は何でしょうか。
まず思い浮かぶのは、カラダのやわらかさです。
カラダがやわらかい。
そうであれば、自然と動作はしなやかにならないか。
ところで、カラダのやわらかさは、どこで決まるのか。
骨がやわらかいから、ではないでしょう。
骨は、釣竿みたいには、しなりません。
骨と骨との間の、連結部です。
連結部の動く範囲の差が、カラダのやわらかさに関与するのではないか。
ここで、ウーム、とストップです。
わたくし、カラダは、かたいです。
筋金入りの、かたさです。
小学生のときから、あるいは、生まれついて。
前屈、うーん、手が床から遠い。
開脚、直角三角定規が入りません。
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連結器は、どこまで変えられるか?
カラダをやわらかくするもの。
そういって思い浮かぶのは、柔軟体操です。
この程度の発想力ですけど。
柔軟体操のひとつの目標場所は、連結器でしょう。
骨を柔軟に、というのは、無理かと思いますし。
柔軟体操を、コツコツ、続けてみなさい。
そうすれば、連結器の質も変わってゆけるよ。
はたして、そうでしょうか。
そういうコトバを聞いたことはあります。
しかし、このわたくしには、無理でした。
それとも、ここにも根性とか根気が関係してくるのでしょうか。
そうであれば、なおさら無理です。
もっとも弱い部分。
ピターと、開脚。
あこがれですが、あきらめています。
生まれかわっても、無理です、そんなこと。
かといって、それでは筋肉を伸ばしてみようとか。
いえいえ、もともと筋肉は伸びるもんじゃありません。
と思っているので、発想的についてゆけません。
たぶん、筋肉を伸ばそうなんてしたら、筋肉がぶち切れる。
応用力のきかない、わがカラダ。
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若さは、遠くになりにけり。
発想の転換
連結器が、もとからさびついている。
たぶん、生まれたときから、さびている。
そうとしか思えない、わがカラダ。
ところで、連結器の動かせる範囲は、いかほどが正常なんでしょうか。
おマタは、90度以上、ひらかないとおかしいですか?
わたしの調べた範囲ですが、どうも「正常値」というのはないみたい。
つまり、いくつから貧血なんですよ、というような数値が。
となれば、いいように解釈してしまえ。
という、いつもの発想に切りかえちゃいましょうか。
角度、ではない。
数値で、見ない、比較しない。
くらしで、見よ。
脚は、何度ひらくか、ではない。
(あくまで、わたくしの勝手な妄言ですよ)。
和式トイレに、しゃがめるか?
ウデは、何度上げられるか、ではない。
せんたく物を、ものほしに、つり下げられるか?
上体は、何センチまで前屈できるか、ではない。
目の前に落ちている10円玉がひろえるか?
数値という、客観値じゃなく、行為にクラ替え。
ずるい発想でしょうか。
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無理やりのコジツケ
所作のしなやかな人は、上品にみえる。
走りのしなやかなランナーは、速そう(実際速い)。
やはり、しなやかさは、あこがれます。
それは、チカラ強いというのとは、ちょっと違った世界。
ここに、連結器の可動域は、どれほどに関わってくるか。
連結器がさびついていたら、どうしたらいいか。
連結器がさびついていても、しなやかさはつくれないものか。
あるいは、曲がりさえすれば、しなやかなのか。
たとえば、タコは、みなしなやかなのか。
高齢の能楽師さんの、見事なしなやかさは、どこから生まれるのか。
けっして柔らかそうには見えませんが。
それは、カラダのしなやかさにこだわり過ぎるな、という教えをふくんでいないか。
というところで、ひらめいたのです。
カラダのしなやかさとは別の次元のものがあるのではないか。
それは、つまり「動作」のしなやかさ。
連結器という視点にふり回されすぎない。
動きのしなやかさ、で考えてみるということ。
もちろん、動きの中心場所は、連結器です。
でも、連結器ソノモノだけではないはず。
ですから、たとえば開脚が180度もできるひとは、みな和式トイレの名人になれるか。
カラダのかたいジッちゃんの方が、うまく使えていないか。
カラダ全体としての、動き方。
奥は、まだまだ深そう。
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かたくても しなやかな道 さがしたい
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