つまりは、いいわけ
型が身についている。
なんだか、カッコいいです。
くわえて、ひとつ上の段階にあるひと、なんていう雰囲気もうまれてきます。
ということで、マジメな方は、型稽古をいといません。
コツコツとくりかえす。
あっぱれ、です。
でも、みんながコツコツ派になれるか、というと世間は広い。
いろんなひとがいます。
わたしも、そのような、ハズレものに属するひとり。
コツコツと習得する、というのが苦手です。
たとえば、腹筋運動1日100回。
基礎体力は、なにごとにおいても大切です。
休み休み、できたと仮定します(実際には、たぶん、できない)。
よおし、がんばったから、明日もつづけるぞ。
これで、記録をのばすそ。
いえ、たぶん、しません、というよりできません。
だって、つらいじゃないですか。
くわえて、寄る歳なみの開き直りがくわわります。
いまさら、型の練習なんて、ナンボのもんじゃい。
身につくまえに、お迎えがきちゃうじゃないか。
こういうのは、よくない発想です。
ひとは、あす死ぬとわかっても、寝る前には歯をみがくのです。
型稽古のめざすもの
イメージしやすい型稽古のひとつとして、「素振り」があります。
テニスや卓球で、ラケットの素振り。
野球やソフトで、バットの素振り。
剣道で、竹刀の素振り。
ランニングの型稽古は、いわずもがな、ランニングです。
毎日のたゆまぬ努力が、発達の素地を産んでゆきます。
あと必要なのは、年季です。
わたくし、その価値は、重く受けとめています。
そーだ、そーだ。
なにしろ、型稽古は、カラダのなかに新しい回路をつくってゆく行為だからです。
回路というのは、なかば無意識の領域に属します。
ですから、疲れたときも、無になったときも、本領を発揮してくれます。
こんな強い味方はない、ってなもんです。
熱いヤカンをさわると、「アッチ」といって、瞬時に手をひっこめます。
これは、型ではなくて、反射です。
型も、反射の域にまで入ってくると、向かうところ敵なし。
なんちゃって、型回路
型稽古は、カラダに新しい回路をつくってゆく。
あこがれます。
でも、現実には、あこがれ止まり。
でも、なんとか、それに近いものはできないものか。
それも、もうちょっと、お手軽に。
はい、世間をなめています。
豚骨を8時間、ジックリ煮込んだおダシでとったラーメン、があります。
かたや、お湯をかけて3分ではいできあがり、というラーメンもあります。
両者を、同じ土俵で比べてみよう、というのはスジちがいです。
目的やコンセプトが、ちがうのですから。
でも、ちがう世界に身をおいてはいても、「おいしく食べたい」は共通です。
そうです、ちがいにこだわると、他がだんだん許せなくなってしまうのです。
他の世界が、見えなくなってしまいます。
ちがう世界や道があっても、いいじゃないですか。
型にかわって、めざすもの
型稽古の基本は、繰り返しです。
10回が100回、さらには1000回。
1月が1年、さらには5年、10年。
ときには、ヘトヘトになるまで、繰り返します。
青春映画、そのものです。
そのまま、沈む夕陽に向かって、どこまでも駆けだしてゆきたい場面。
で、繰り返しによって、何を得ようとするんでしょうか。
カラダの中に、どのようにして回路をこしらえてゆくんでしょうか。
イニシエの達人は、型に何をこめたかったのでしょうか。
型稽古を繰り返すことで、はじめて入ってゆける世界。
そこを、もうちょっと安易に見てみたい。
「こんな感じ」体験
型稽古を繰り返すわけではない(つづきません)。
その代わりに、感覚だけを研ぎすませてみます。
イニシエの達人が伝えたかった回路は、コレかな?
そのヒラメキが正しいかどうか、はすぐにはわかりません。
ただし、実践してみると、実感はわいてきます。
それがカラダをつかう型のいいところです。
頭でっかちで終わりません。
よくなかったら、実戦でわかります。
どのようにしたら、感覚は研ぎすませるのでしょうか。
ひとつは、自分で内省してゆくことです。
ゆっくり、動いてみることです。
反対に、はやく動いてみてもいい。
そうすると、ああ「こんな感じ」かなあ、というヒラメキに出会いませんか?
そんな瞬間に出会えると、それこそ小躍りしたくなります。
ときどき、たいして型稽古をしないのに、パッと習得しちゃう天才みたいな子に出会います。
たぶん、その子は、「こんな感じ」をつかむのがうまいんです。
だから、その世界で大成してゆくか、は別のはなしになりますが。
「こんな感じ」は、ふだんのランニングの中で、とつぜん出会うことがあります。
レースの後半に、パッとひらめくことがあります。
ぼくの場合、しばしば、ヘトヘト状態の中で、ありました。
余分なチカラが出せなくなったのを見計らって、訪れたのかな。
ああ、この感じ、いいぞ。
楽に走れる。
たとえ、一瞬であったとしても。
それを「こんな感じ」体験、と名付けました。
芸のない名前になってすみません。
意識をもつなかで、ピピっと感じることがある「こんな感じ」体験。
若い世代は、マジメに型稽古をこなしてみる。
その中で、新しい回路をつくってください。
それが可能な体力と時間がある。
老いた世代は、その本質をさぐろうとして、突然出会ってみる。
たよりにするのは、人生経験です。
先の時間が少ないぶん、こういう道をみつけてみる。
自分の感覚、どのくらい持っていますか。
若いモンとは、別の道を切りひらいてゆきますよ。
(若いモンに相手にされないからなあ)。
どの道も からめ手あるぞ あきらめず
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