伝統文化
わが国には、古来より、「型文化」が根づいています。
その起源は、ずいぶんと昔に、さかのぼります。
世阿弥の時代より、もっともっと以前からのようです。
そんな型の歴史を知らなくても、くらしの中のどこにも「型」をみることができます。
もう型として、主張していないものまであるでしょう。
たんなる習慣として、認識されているのもあります。
ご飯とおミソ汁の並べ方、だってひとつの型です。
玄関をあがるさいのクツの脱ぎかた、だって型です。
ということで、ランニングだって、型があります。
型を知っているかどうか、で習得性の効率もちがったものになるでしょう。
ぼくが走りに興味をもったのは、20年以上も前のことです。
陸上経験ゼロ。
まわりに、走りのはなしができるひとなし。
知識もなし。
情報もなし。
という環境のなかで、走りの型なんて発想は、まったく持てませんでした。
つまり、伝統ある型文化から、完全にはずれていました。
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遠回り
ということで、走りのすべては、自己流で幕をあけました
自己流でも、走るだけなら、だれにもできます。
とくにスピードや記録を考えないものでしたら。
みんな、物心つくまえから、走って遊んでいましたから。
そういうレベル、ということですけど。
クツは、家にあったもの。
走った距離をはかるとか、時間を計測するなんてことも知りません。
そもそも、腕時計さえ、持っていませんでした。
きょう、何キロ走ったのか、何分走ったのか、まったくわからん。
もちろん、マラソン大会の存在なんて、知る余地さえありません。
のちに知るようになっても、自分とはエンのない世界。
まったく、気にしません。
そんな、田舎もん走りの生活が、しばらくつづきました。
しばらく。
まあ、10年弱、ってところでしょうか。
ただ、ただ、テコテコ畑道を走っているだけ。
進歩も、型も、あったもんじゃない。
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レースデビュー
それでも、長く走りにつきあっていると、少しずつ「走り」の世界に接する機会がふえるものです。
やがて、スポーツ店で、ランニングシューズ、というのに出会いました。
最初は、感動したものです。
なんだか、力をシューズからもらえる期待。
でも現実はそういかなくて、やがてシューズへの関心は失せてゆきます。
いまは、ワラジや地下タビで十分です。
ランニングウオッチ、というのも手にいれました。
スタートとストップがついているだけでしたが、走った時間がわかる。
画期的に思えたもんです。
ランニング雑誌がでていたのも知りました。
パラパラめくると、うしろに市民ランナーのレース紹介がされているのに驚きました。
やっとインターネットが使えるようになりつつある時代。
電話回線を使って、ジーコジーコ、と気の長い遅さでしたけど。
そんななか、意を決して、はじめてのレースの申し込みは、ハーフマラソン。
練習でも走ったことのない距離です。
まさに清水の舞台からズッコケタ展開。
すべてにとまどう。
申し込みから、手続きのとまどい。
当日の、どんなスケジュールで動けばいいのかのとまどい。
スタートしてからの、ペースのとまどい。
終わってみれば、レースは苦しかったね、というのが1番目の感想。
もちろん、走り方は、まったくの自己流です。
とはいっても、左右の足を交互に前に出す、というのは、みんなと同じでしたけど。
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型があったら
ランニングファッションという型。
走力にあわせてあるらしいというシューズの型。
いちばん大事な、走りの型。
おっと、その前に、練習にも型があります。
まさに、型サマさまです。
最初に、型から入っていれば、どんな道を歩んでいたでしょうか。
そして、レースデビューが、あと10年早かったら。
おそらく、記録も、もう少しマシだったかもしれません、いえやっぱり無理か。
いろんなモノに、型というものがあるんだな。
ランニングを通して、知ったことです。
型というのは、運動に共通するものなんでしょうか。
テニスや卓球でも、いわゆる素振りという型。
柔道や相撲も、型を大事にしますね。
陸上では、ダッシュや足さばきなんかが型になってゆくのかな。
型から入ってゆく道。
習字だって、はねやはらいという型を学びます。
ピアノも、ハノンという指の型がある。
算数の型は、掛け算九九ですか。
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型を考える
型の有用性が、だんだんとわかるお年頃になってきました。
って、もう遅すぎますけど。
そういえば、型がないのを「かたなし」というんでしたっけ。
しかたがない。
一方で、じゃあ型を極めてゆけばいいのか、という疑問もでてきました。
基本の型さえ身についていないのに、ゴーマンじゃないですか。
はい、そういう性格なんです。
そもそも、型の習得って、むつかしそうですし。
残された時間も、そんなにありませんし。
型から、はみだすのもいいのかな。
型にこだわり過ぎるのを、「型にはまった」なんていわれますから。
ほめた言葉ではありません。
ということで、妥協点をさぐってゆきたい。
一定の「型」は大切。
でも、そこにこだわりすぎても、なんだかねえ。
オトナになったら型から、一歩、外に飛びだしてみる。
そこから見えるものは、何なんでしょうか。
あと一歩。
(つづく)
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カッコから 入るのもよし まず一歩
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