「おす」走り、「ひく」走り(自分編)

継続

 

継続する動きは、往復運動
往復というのは、文字どおり、いったり来たりです。
人間の動作の基本

ただし、わたくしの見解です。
すいません。

往復運動の中に入ると、意識さえ不要になってゆきます。
いうなれば、無意識運動
自然に、いって、もどる。
意識をしなくても、いって、もどる。

呼吸も、いって、もどる(吸って、はく)。
心臓も、いって、もどる(押して、吸いこむ)。
も、いって、もどる(拡がって、つぼまる)。

名ピアニストの演奏も、いって、もどる。
カラダをみていると、そう動いていませんか。

いって、もどるは、単純です。
単純ゆえ、継続ができる。
単純ゆえ、混乱が生じない。
単純ゆえ、よぶんな意識が不要。

逆に、この単純の輪がまわらなくなると、うまく作用しなくなります。
継続性の中断。
ちぐはぐさ。

 



 

歩きも、走りも、継続運動

 

歩くのは、継続運動です。
走るのも、同様。
一方のアシを、前に出す。
つぎに、のこりのアシを、前にもってゆく。
この左右交互のアシの、往復運動です。

このとき、アシを前に出すのは、アシを「おし」出すことです。
また、うしろになったアシを前にもってくるのは、「ひく」行為です。

つまり、アシを交互に「おし」「ひく」運動。
「おす」と「ひく」の往復運動

ですから、とくべつに意識しなくても、歩けるわけです。
スマホに夢中になりながらも歩けるのは、そういうわけです。
歩きながらのスマホは、好ましくありませんが。

走るのも、同じです。
まあ、ハアハア息がつづかないペースでなければ。

ここで着目したいことは、歩くのも走るのも、「おす」「ひく」のくり返しということです。
といって、時計の振り子のように、両者が均等ではありません。
つまり「おす」力が50%、「ひく」力が50%ではない。

どちらかが、優位にたっています。
さて、どちらが優位にたっているでしょうか?

 



 

歩きも走りも、「おす」が主役

 

まずは、歩きから考えてみます。
どのように歩いていますか?
また、どのような歩き方が、すすめられていますか?

結論からもうせば、「おす」を大事にする歩き方じゃないでしょうか。

胸をはって、いい姿勢をつくる。
アシのモモをしっかりあげて、大きな一歩をふみだす。
歩幅は、ひろく。
カカトから、力強く着地。
うでのふりも、しっかりと、ね。

ウオーキングの基本となると、こういう感じです。
まちの中を、サッサか歩いている方も、基本はこうです。

そして、これには恩恵までついてきます。
歩幅のひろいひとの方が、元気で長生き」。
ちゃんとした歩幅を意識して歩きましょう、と。

走りも、この流れにのっているようです。
しっかりモモをあげて、力強い走りがすすめられる時代です。
力強い走りをサポートするために、シューズは厚底

この歩きや走りの主役となる動作が、「おす」になるのは自然の流れです。
しっかりと、アシを「おし」ださなければ、力強さはうまれません。

社会は、めす優先ですが、この世界だけは例外のようです。
(個人的感想)

ここに、西洋、東洋の基本的ちがいは少ない。

 



 

「おす」西洋

ノコギリに2種あり。
「おして」切る西洋ノコギリ。
「ひいて」切る、和式ノコギリ。

そう、日本には、「ひく」文化が根づいていました。
とこが、なぜ歩きや走りは、「おす」力優先となっているのでしょうか。

ここは、歴史の振り返りが必要となりそうです。
江戸から明治に切りかわりました。
このとき、大胆な切りかえが、しばしば強要されておこなわれています。
あまねく、西洋化を目指せ。

長く生活に根ついたものたちが、これによって大変化をおこします。
(医療も)

それはなんと、歩き方まで、口出しされたのです。

「おして」歩きなさい。
表現は、こうではありませんけど。
行進が、ひとつの目標でした。
軍隊の行進、学校での行進。
それこそ、「おして」歩くにほかなりません。
まさに、歩きの西洋化

それから150年以上がたっています。
わたしたちの歩行様式は、西洋式が根をはっています。
そのまま、走りにも。
みごとな西洋一本化です。

 



 

わたくしの挫折

 

という流れの中で、わたしも以前は「おす」力が優先の走りでした。
もう、何も考えずに、自然にそうなっていました。
そういう環境の中で育ったから、でしょうか?

そして、アシを痛めました。
ふくらはぎの肉離れ、けっこうキョウレツな。
ずいぶんと昔、もう15年以上も前です。

走れなくなって、カラダじゃなく、アタマを使ってみました。
ありがたいことに、アタマは、肉離れをおこしません。

自分には、ああいう力強い走りは無理ですね。
すなおに反省。
という流れで、ゾーリでショボショボと歩きだしました。
それなら、肉離れも痛くない。

やがて、地下タビで走る。
さらには、ワラジワラーチで走る。
いよいよ、羽織ハカマで走る。

そういう中で、気がつきました。
アシは「おし」だしていない、いや、おしだせない。
うしろアシを、「ひく」力がメインになっている。

「おし」てもダメなら、「ひいて」みな。
陳腐な文句ですが、これは走りにもいえてるんじゃないか。

もちろん、くりかえしますが、「おす」と「ひく」の2択ではありません。
どっちがエライ、ということでもありません。
この境界のない両者の間に、比重があるだけ。
おす」が主体の、歩きや走り。
ひく」が主体の、歩きや走り。

これは、ヒトによって、さまざまです。
同じヒトでも、状況によって、両者の比重もかわります。

で、自分は、ふだんはドッチ派ですか?
そして、どんなときに、比重が移動しますか?

そう考えるだけで、自分の歩きや走りの特徴がみえてきませんか。
くわえて、こういう目で、他のランナーの走りをたのしむ。
(つづく)

 



 

たーさん
おすとひく いがいにちがう 腰感覚

 

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