特別区

あらためて、生命の基本原理

 

ひとは、おかれた状況の中で、つねに「よい方向」へ向かって生きている。

なので、つらいときでも、自分をふり返ってみましょう。
不都合なときでも、自分をふり返ってみましょう。

自分は、どう感じとっているか。
そして、カラダは、どうして欲しがっているのか。

そして、どういう方向に向かっているか。

野生動物は、この基本原理に忠実です。
さからいません。

ケガをする。
痛みで、エモノをとりにゆけない。
こんなとき、どうするか。
じっと静かに、キズがいえるのを待ちます。

痛みを感じているから。
痛みは、静かにしなさい、と伝えているから。

でも、ときに、そのまま弱って命を落とすこともあります。
それは、宿命
生きてゆくサダメというのは、こういうものです。

 



 

人間だけは

 

ケガをした野生動物は、生命の基本原理にみちびかれています。
生きるプログラミング、といっていいかもしれません。

ところが、唯一、例外の生き物がいます。
人間です。
人間だけは、「どこを向くか」、読めません。

だって、みなが同じ方向を向いてませんね。
とくに現代社会は、その多様性が、きわだっていませんか。
ときには、まったく逆方向をむくことだってあります。

たとえば、痛みをおぼえた。

あるひとは、薬をのむ。
あるひとは、病院という門をくぐる。
あるひとは、マッサージをほどこす。
あるひとは、あたため、あるひとは、冷やす。
あるひとは、注射を希望する。
あるひとは、手術にかける。
あるひとは、おまじないに走る。

いったい、いくつの方向性があるでしょうか。
薬をのむ、ということだけでも、10や20種類の選択肢がありますし。



 

 

多様性を作るもの

 

なぜ人間だけは、かくも多様な方向性をもつのでしょうか。

脳ミソの発達のため。
わたくしの、結論です。

人間は、脳ミソが、独自の増殖をしている。
その増殖が、進歩かそうじゃないか、はここでは考えません。
増殖のおかげで、多彩な方向性をもつようになった。

よい方向」に向かう、という基本原理は生きています。
あえて、悪い方向を選ぶことは、ふつうありません。

何を「よい方向」とするか。
ここに、さまざまな「知恵」が考えだされてきたのですね。
価値観、といってもいいかもしれませんが。

どの「知恵」を選択しようか。
ここが、わかれ道になります。

かしこい知恵もあれば、悪知恵だってあります。
欲にからんだ知恵もある。

かくして、薬か、注射か、検査か、手技か、精神か、安静か、とかの多様な道ができることになりました。
しかも現代は、この根底に「欲」というのが、どっしりと根をはってしまった。
それが、事態をさらに多様化させています。

どれだって、みな「よい方向」と支持するひとがいます。
そういう多様な構造をつくり出した人間の脳ミソって、一体。

 



 

現代人の脳ミソ

 

現代人の脳ミソの特徴は、なんでしょうか。
ほかの野生動物とはちがう。
太古の人間ともちがう。

わたしは「脳ミソの独立性」を考えています。
独立性、です。
脳ミソが、脳ミソとして、独立している。

カラダから離れようとしている。

独立できれば、「自在な命令」を下すことができます。
都合のいい判断」を下すことができます。

他がどうなのか、を考えなくても平気です。
他がどうなっているのか、を考えることもありません。

他って、何?
脳ミソ以外のカラダです。

何しろ、独立した存在なんですからね。
もう自由気まま、ゴーイングマイウエイ。

なぜ脳ミソがこういう存在となっていったのでしょうか。
能ミソは、1人でも生きてゆける、と考えたからです、

脳ミソは、カラダの中で、「独立区」を作ってしまったのです。

 



 

 

本来の脳ミソ

 

では、本来の脳ミソというのは、どうなっているんでしょうか。
野生動物の脳ミソです。
太古の人間の脳ミソです。

それは、カラダの感覚等をうけ入れる「中継」です。
そして、カラダにその判断を送る「中継点」です。

あくまで、中継点です。
受けるカラダがなければ、存在意義もない部署。
受けてくれるカラダがなければ、存在意義もない部署。
それが、中継点の意味です。

脳ミソの前に、カラダありき。
脳ミソの先に、カラダありき。
カラダの存在なしに、脳ミソはない。

カラダは、全身で様々なことを感じています。
それらを、まとめて感じとる場所が、脳ミソです。

そして、脳ミソの判断を、カラダはどう行動にうつしているか。
そこに注意をむけるのも、脳ミソです。

しつこいですが、カラダなしに脳ミソの存在意義はない、といっていいくらいです。
野生動物は、いまもこの回路を、もっています。
太古の人間も、もっていたはずです。

そうでなければ、生きてゆけなかったから。

ところが、カラダを使わずにくらせる社会を、人間はつくりあげました。
あろうことか、カラダを使うのを、下に見るような風潮さえ生み出しています。
カラダを使わない工夫が、進化と言いだしました。

カラダから、離れて、独立していった脳ミソ。
それが、現代のひとつの特徴かもしれません。

ことは、人間の中の構造だけに、とどまりません。
いまの社会、政治も同じ構造になっていませんか。

きょうは、自分のカラダの声をゆっくり聞いてみよう。
カラダと、脳ミソのつながり方を考えてみよう。
自分の原点。

 



 

たーさん
独立は ホントにいいのか 脳ミソさんよ

 

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