手紙は愛だ
ラブレター フロム カラダ〜 ♪
うーん、今回も出だしから、思いっきりすべりまくりです。
はい、『カナダからの手紙』のメロディーがアタマを流れています。
平尾昌晃さん、畑中葉子さん、どーもすみません。
「思いを伝えたい」
その感情が、手紙をうみました。
過去から現代まで、いったい何億通の手紙が、いえ何千億通の手紙が、この地球上をかけめぐったでしょうか。
そして現代もなお、ITにその姿は変わってきてはいますが、手紙の精神は変わることなく生きつづけています。
源氏物語は、平安Twitter
源氏物語といえば、今から1000年ほど前に成立した古典です。
光源氏の誕生から、数々の人生、とくに恋愛の変遷、そしてやがて老いて52歳で出家してのち崩御するまでの物語です。
さらに、その後の関係する人たちの人生模様もつづきますが、主人公は光源氏です。
光源氏は、人生の最初に理想の女性に出会ってしまったがゆえに、その人を失うと、ふたたびその理想像を求めながら数々の恋愛劇に身を投じてゆきます。
恋する心情は、すべて和歌となって伝えられてゆきます。
源氏物語に登場する和歌は、全部で795首です。
基本、57577の31文字。
つまり、795ツイート数ということです。
そうです、源氏物語は、「31文字制限」の平安Twitterのやりとりを、地の文でつづけた絵巻物なんです(わたくしの個人的見解)。
ねえ、紫式部さん。
いやあ、今より送れる文字制限がきびしかったんですね。
しかしその文言は、数多くリツイートされ、現代に至っています。
どんだけ、名文だったのでしょうか。
たとえば、理想の人、藤壺の宮には、こんな和歌をツイートしています。
「我思うに 立ち舞ふべくも あらぬ身の
袖うちふりし 心知りきや」
現代版Twitterにのせますとね、
「アナタに注目されたくってね、😅
メールうつ手👋もドキドキなんだよ、
それで打ちまちがっちゃったのさ、わかるかい⁉️」
源氏物語といえば、数々の著名人が現代語訳に挑戦されていますが、和歌がまだ現代のメール文になっていない、というのが、わたしの不満な点です。
だから、わたしが……なんて思っても、とても気のきいたTwitter文はうてません。
つくづく文学オンチ、Twitterオンチが残念です。
自分からの手紙、ちゃんと受けとってますか
伝える思いは、AさんからBさんへ、という形式だけじゃありません。
「自分から自分へ」発信する手紙だってあります。
というより、一番膨大な手紙は、じつは自分から自分への手紙だと思うんです。
いままで、ちゃんと受けとっていましたか。
え、そんなの来ていましたか、なんて驚かないでくださいね。
生きている、ということは、つねに自分あての手紙を出しつづけていることに他なりませんから。
そして、その手紙を受けとっていたから、今日がある。
そこまで言い切っちゃっていいと思っています。
「えっ、どんな手紙がきているの」なんて聞かれると、ひと言での説明はむつかしいです。
それほど、数えきれない数の手紙。
簡単には、分類も整理もむつかしいでしょう。
それでも、ここでは、とんでもなく強引に、自分あての手紙を3つに分類してみました。
ただし、かなり無理をしての分類である点を、ご了承ください。
カラダからの手紙、3つの大分類
くらしからの手紙例
目がさめた、さあ起きようかなオシッコいきたくなったなあ
ウンチしたいなあ
オナカがすいてきたぞ
眠くなってきたな
歯をみがきたい
服を着がえたい
肉体からの手紙例
肩がはるなあ足首がズキンと痛むぞ
息苦しい
足が疲れて動きたくない
だるくて、だるくて仕方がない
外で体を動かしたい
お風呂であたたまりたい
足がしびれる
膝を曲げると痛い
ココロからの手紙例
気持ちいいなあ満足だ
ああ、つらいなあ
胸がしめつけられるようだよ
悲しくって、悲しくって、どうしたらいいだろう
うれしい、飛び上がりたいほどだ
残念だなあ
きのう1日で、何通の手紙に気がつきましたか。
一通も、来ていませんでしたか。
そんなこと、ないはずです。
手紙の出し方、受けとり方
自分への手紙のだし方は、いく通りもあります。絵手紙のように、時間をかけて、心をこめてだす。
大急ぎで伝えたいことを、速達でだす。
いっぱいあるので、小荷物にしてだす。
連日、くり返してだす。
受けとり方も、いろいろあります。
コーヒーを味わいながら、しみじみと何度も読みかえす。
直立不動で、凍ったように読む。
読みながら、思わず涙が紙面をぬらすこともある。
わなわなと読む。
飛びあがって読む。
特に大切なのは、手紙の受けとり方ではないでしょうか。
なぜなら現実には、さまざまな理由で、手紙がきているのに気がつかない人がいるからです。
手紙が届いているのを忘れて、開くことを忘れている人がいるからです。
手紙を読もうとしたのに、文字が読みにくくて、書かれていることが理解できないことがあるからです。
手紙は、毎日届けられています。
今日は、自分からの手紙を、いくつ受けとるでしょうか。
そのうちの、いくつを読むでしょうか。
返信の必要な手紙は、ないでしょうか。
重大な、あるいは緊急を要する手紙をそのままにしておくことは、ときに大きな結果をもたらすことがあります。
ていねいに生きる、ということは何も品行方正に生きることとは違うように思います。
そもそも、品行方正、わたしには無理です。
カラダからの手紙に、すなおに向き合うくらしなら、できてゆけるかも。
たとえば、時間がきたから、あるいは、目の前にあるかた食べる、というより「オナカがすいたよ」「コレを食べると調子よくなるね」というようなカラダからの手紙とのやりとりの食事。
たとえば、今月は何キロ走るぞ、というより、「調子よく明日につながりような走り」をカラダからの手紙を読みながら走る。
カゼをひいたときだって、カラダはちゃんと手紙を届けてくれていますよね。
そういう感覚を、少しずつするどくしてゆけたらいいな、と思います。
そうです、本ブログは、そんな「カラダからの手紙」への返信でもあります。
一通の手紙を大事にすると、新しい生活がはじまる、ような気がします。
一通ずつ、大切に手紙を読みたい。
一通ずつ、真心をこめて、返事をかきたい。
(ランナーは、とくに痛みの手紙がきたときは、大切に読んでおきたいですね)。
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