安全、それとも安心?

みそくそ談義

 

いきなり、お下品な話題で、もうしわけございません。
って、お上品な話題が、これまでありましたか?
ありません。

ミソもクソもいっしょにする、というコトバがあります。
略して、みそくそ
いやはや、本当にこんなことってあるんでしょうか。

そりゃ、遠くから見れば、どっちも同じに見える(本当ですか?)。
ただし、おかれた状況を考えれば、混同することはありえないでしょう。
にもかかわらず、こういうコトバがあるということ。
何かのいましめなんでしょうか。

じつは、ぼくの場合、あります。
しかも、けっこうな場面である。
その結果は、反省しきりの場面ばかりです。
なので、気にかけるようになりました。

ええっ、じゃあ本当にクソを口にしちゃうんですか。
本物の、くそジジイじゃないですか。
いえ、だから、比喩なんだってば。

 



 

安全と安心

 

わたしたちのまわりには、安全と安心というコトバがあります。
しかも、いっしょに使われることもあります。
似ていますしね。
双子みたいな関係でしょうか。

いや、ぜんぜんちがうんですよ、というのが今回の結論です。
たとえば、新明解国語辞典をひいてみます。

安全:災害や事故などによって、生命をおびやかされたり、損害や損失を被ったりするおそれがない状態。

安心:心配がなくなって、気持ちが落ち着くこと。

ニュアンスのちがいが伝わってきますか。
もう少し、ボクなりの、大胆な使い分けをさせていただきます。

安全:客観的な見方
安心:主観的な見方

ここです、客観的なのか、主観的なのか。
立場のちがい、です。
これで、見える世界は、ぐっと変わってしまいます。

 



 

客観の世界、主観の世界

 

客観というのは、離れて見える世界です。
第三者的、ともいえます。

どんなものでも、本質をつかむ、というのは容易ではありません。
全体像をパッとつかむ、というのも、たいへんです。
そういう対象を、客観的にみるというのは、どういうことでしょうか。

ポイントを3つほどあげたいと思います。

・決めつけない(それが客観的)
・冷静さを忘れない(それが客観的)
・対象にあわせる(それが客観的)

一方、主観というのは、自分の思いです。
もう少し強調すると、思いこみです。
自分でつくる、自分だけの見方です。

ポイントを3つほどあげたいと思います。

・決めつける(それが主観的)
・熱さがくわわってゆく(それが主観的)
・自分の中につくる世界(それが主観的)

 



 

安全のため?安心のため?

 

いま、世の中は不安がおおっています。
たくさんの不安。
その中で、とくに広がっているのが、新型コロナウイルスへの不安。

なんとかしたい。
相手は、新型コロナウイルスです。
対象は、ハッキリしています。

ならば、その対象にあわせて、むかってゆくことになります。
不安に打ち勝とうと、さまざまな試みがなされています。

ひとつの基本は、自分が被害者にならない工夫。
もうひとつが、自分が加害者にならない工夫。

そのために、いろんな対策案が出されました。

接触をさける。
マスクをつける。
消毒をする。
納豆をたべる。
県をまたがない。

最初は、正体もつかめなかった新型コロナウイルスも、時間とともに、こういうウイルスなんだな、というのがわかりはじめてきました。
ただし、当初は、正体がまったく不明。
これは怪盗二十面相のしわざか、宇宙からの侵略者のしわざか、というような不安。
ですから、いろんな対策案は仕方がありません。

ところで、不安の正体は、なんでしょうか?
自分の「こころ」です。
こころが、不安をつくる。
こころを落ちつかせるために求めるものは、「安心」です。
だって、安心は「主観」だからです。
自分のこころそのものだからです。

不安になったら、安心が欲しくなるんです。

 



 

とはいえ

 

だれだって、不安なときは、安心を求めたくなるでしょう。
ボクだって、求めたい。

ただ気をつけたいのは、安心は「主観」だってことです。
自分が信じたこと、です。
自分が信じたことは、自分のものです。

ほかのひとは、ちがうかもしれません。
だって客観的じゃない、からです。

とはいえ、新型コロナウイルスは、客観的にみなくちゃいけないものです。
客観的な正体も、だんだん解明されてきました。

ところで、自分の信じた「安心」がパワーアップしすぎると、どうなるでしょうか。
主観は、ときに際限なくヒートアップしていっちゃうんです。
そこには、すでに、対象の本質なんて、消えてしまっているかもしれません。
むしろ、ヒートアップするほど、対象なんか見えなくなってしまうものです。

のこされるのは、自分の安心のためのゆきすぎた思想や行為。
自分の安心感にそぐわないものは、悪人という思想や行為。

いま、ほんとうに必要なのは、安全のための行動です。
客観的な視点です。

客観的な態度なら、解明されてゆく相手にあわせて見方や行動もかえてゆく
そういうことが、できているでしょうか。

同じことのくりかえしで、すみません。
安全の共有は、大切。
安心の強要は、おせっかい。
こういう、ちがいです。

 

世の中を論じるまえに、まず自分を、ちょっと振り返ってみる。
この行為は、安全の行為かな。
それとも、安心を求める行為かな。

きっちり区別はむつかしいかもしれません。
でも、そういうふり返りは必要じゃないかな、と感じています。
安全と安心をごっちゃにしちゃうこと。
これこそが、「みそくそ」なんだってば。

走ることも、安全と安心の2面性がありますね。
(つづく)

 



 

たーさん
安全と 安心わけて おだやかに

 

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