落語的分身の術でゆこう

ということで、一席

 

「おい熊さん、こんな中でも走っているのかい?」
「何をおっしゃい、ご隠居さん、アタリ前田のクラッカーよ」
「なにバカなことやってるんだい、おカネにならないことで」

ごぞんじ、貧乏長屋の、熊さんの家のまえのやりとり。
登場するは、ご隠居さん、熊さん、そのオカミさん

落語というのは、演壇でかたられるお噺芸
聴衆に向かっての、ひとりで演ずる話芸です。

ひとりで語ってゆきますが、登場人物は多彩です。
ふつう、何人もが登場してきます。

それを右に向かって、左に向かって、語り調をかえて、演じ分けてゆきます。
器用に特徴をつかまえるのが、芸の力です。

なんだか、むつかしそうだな。
そうでしょうか。

 



 

誰でも噺家

 

ふり返ってみてください。
自分の中に、落語の才能がねむったままになっていませんか。

いやいや、そんなこと考えたこともないよ。
そう思われたら、その通りで、考えたことがなかっただけかもしれません。

というのも、です。
自分の中に、ご隠居さんが、ひそんでいませんか?
自分の中に、熊さんが、いませんか?
自分の中に、オカミさんが、隠れていませんでしたか?

ご隠居さんは、マジメで物知り、ときにちょっと高みに立ちたがります。
熊さんは、世間体より、自分の気持ちで突っ走りがちです。
オカミさんは、計算高く、うまいやりくりに長けています。

みんな、多かれ少なかれ、ココロの中にもっているものじゃないでしょうか。

ところが、意識していないと、3人を演じ分けることはできません。
というか、ふつう、意識していません。
3人がゴチャゴチャ。
場面場面によって、知らぬ間に使いわけられているんですけど。
おそらく、自分自身にも、自覚がないことが多いような気がします。

落語が生まれたのは、江戸時代でしょうか。
大衆文化が花開いた時代、といわれることもあります。
そういった一面はあるでしょう。
しかし、現実の生活は、いまよりもきびしかったはずです。
医療も、保証も、備蓄も、いまとは比較にならなかった時代です。

飛脚も、そんな時代に走っていたんですが。

そういう時代を生きるコツ。
そのひとつが、性格の使い分け

 



 

 

にわか落語家、誕生

 

自分の内に秘められている3人を演じ分けてみる
そんなに、高尚に求めなくても、いいんです。

いま、誰になっているのかな、とだけでも自覚してみる。
あるいは、誰になってみようか、と意識してみる。

内なる、ご隠居さんになってみたら。
切りかえて、熊さんで話してみたら。
さらに切りかえて、オカミさんの気持ちになってみたら。

同じ向きをむいて、同じ口調だと、3人は演じわけられません。
芸に、なってゆかない。
一番は、自分から、意識すること。

ここは、ご隠居さんでふるまってみようか。
うん、いまは熊さんでやってみようか。
このツボは、オカミさんでゆくべきだ。

落語的、分身の術

自分のカラダは、ひとつです。
だからといって、性格や発想を、ひとつに制限する必要はありません。

人間は、だれだってジキル博士になれば、ハイド氏にもなる。
洋の東西を問わず、みるひとは見ているんです。

繰り返します。
分身の術
横文字をつかうと「アバター」。
みんながもっている、はずの性質。
そうそう、忍者も18番でしたね。

つらい時期、この使い分けが案外いけます。

 



 

 

切りかえ

 

落語家は、みごとに登場人物を、切りかえて、演じあげてゆきます。
それぞれに、なりきって話す。

そうです、たまには、それぞれの登場人物になりきってみる。

ご隠居さんになりきっての、ご隠居さんのセリフ。
熊さんになりきらないと、熊さんのセリフは生きてきません。
オカミさんになることで、オカミさんのセリフがサマになるんです。

そして、根底には、それを演じきっているんだ、という自覚

この場合、3人の分身の術をつかっているんです。
なりきらないと、3人は、演じきれません。
意識しないから、ごっちゃにしちゃうから、自分でも混乱することがある。
ま、わたくしの、浅はかな考えですけど。

そしてこれは、ひとつの例です。

自分の中には、ホントは、誰がいるんだろう。
何人の人物が、いるのかな。
どんな人物が、いるのかな。

そう考えるだけでも、おもしろくはありませんか。

 



 

分身の術を楽しむ

 

自分の中の、複数の人物像。
意識しないと、何人いるのか、どんなひとがいるのか、は見えてきません。

入門編として、自分の中の、ご隠居さん、熊さん、オカミさんを意識してみる。
さすが、古典芸能。
この3人で、自分というのが演じられているんですね。
自分の幅が広がる。
たぶん、このわたくしも。

3人いるんだったら、3人に活躍してもらいましょう。
それぞれ、ちゃんと演じなくっちゃ。
1人だけじゃ、おもしろくない、というか、片寄ります。

熊「テーヘンだあ、テーヘンだあ、コロナで滅びちゃうよお」
ご隠居「まあまあ、お茶でも飲んでおいき」
オカミ「そんなことより、今日のかせぎを考えとくれ」

内なるみんなで、協議。

ご隠居さんの、ちょっとした余裕。
熊さんだけで、右往左往する。
オカミさんは、バカらしくて退場。

ひとりだけじゃあ、落語になりません。
深みにはまっちゃう危険性もあります。
この発想、走りにも使えるんですよ(次回予定)。

とくにね、わたしのようなお年寄り。
年をとるほどに、ひとりに凝りかたまっちゃイケません。

としとって、ひとりにかたまっちゃうとね、ご用心。
ワカランチんの熊さんでかたまっちゃうと、アルツちゃん、なんていわれるようになります。
ツッけんどんなオカミさんでかたまっちゃうと、レビーちゃんと、よばれます。
頑固一徹のご隠居さんでかたまると、ピックちゃんと、診断されます。
まあ、最近は、前頭側頭葉ナンチャラと、味気ない名前になりましたが。
はい、わたくしの妄想です。

いえ、世間を批判しているんじゃ、ありません。
落語の話です。
毎度バカバカしい一席で。
どーも、すいません。



たーさん
笑いあげ 使いわけての 広がる人生

 

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