思いちがい
人体は、対称的。
ですから、左右のバランスが大切。
それは、走るときも同様。
ずっと、ずっと、そう思ってきました。
太陽は、東の地平線からのぼって、頭上をとおりこして、西にしずんでゆく。
つまり、わたしたちのまわりを、回っている。
ですから、わたしたちが中心。
太陽は、わたしたちのまわりを、回っている。
そう思うのと、同じかもしれません。
そう捉えて、何の問題も生じません。
太陽が地球を回っていると書くと、理科の問題では、減点されるでしょう。
でも、現実には、どっちだって現実には、支障はきたさないはずです。
そこを一歩すすめる、ということに、何の意味があるんでしょうか。
でも、です。
新しい場所に立つと、新しい光景がひらけてきます。
そういう光景を見るのも、たのしいものです。
とくに、カラダの使い方がかわるのではないか。
そんな気分にひたっています。
走り方だって。
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人体の非対称性
腑分け。
人体解剖。
いったい、どんな了見のひとが、このような行為を考えついたのでしょうか。
外からみた人体は、左右がまとまっています。
対称的。
では、皮をはいでみたら、どうでしょうか。
すると、肺は、左右がちがっていました。
右は3つ、左は2つにわかれていて、右がおおきい。
心臓は、真ん中にありますが、先っぽが左にかたむいている。
オナカの上部には、おおきな肝臓は、右にあります。
左には、同じような色ですが、まったく小さな臓器が。
脾臓です。
胃袋は、左から右に向い、小腸へ。
これは、もん何だか、グルグル回転しています。
そこにつながる大腸は、右からはじまって左に回ってゆく。
じつに見事な、非対称性です。
なのに、すべてが、キチンと収まっている。
押入れの中は乱雑なのに、カラダの中は、みごとな収納状態。
性格じゃないんですね。
整理整頓。
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機能の非対称性
脳ミソに、目をむけてみます。
脳ミソは、左右が、結構な均衡でできています。
見事な、左右対称性ではないか。
そこからつながる目や耳や鼻も、きれいな左右対称性です。
なのに、なぜに、右派や左派が生じるんでしょうか。
さすが、脳ミソの構造です。
理路整然です。
ところが、です。
各部の働きは、じつにバラけていました。
手を動かす。
コトバを理解し、しゃべる。
音を、聞き分ける。
これらの担当部署が、じつにバラバラ。
むかしからの町は、番地が飛んでいることがあります。
古い順から、1番地、2番地、3番地。
のちに、その間に新しい家ができると、同じ番号にはできない。
そこで、1番地と2番地の間に、501番地ができることがあります。
そんなイメージをもった臓器が、脳ミソ。
脳にも、番地があるんですが、どんな秩序なんだか。
あたらしくきた班長さん、大変そうです。
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どういう見方がいいだろう
わたしたちのカラダには、意外にも、おおきな非対称性がひそんでいる。
無視できないような、左右差。
それは、見た目だけではありませんでした。
機能的にも、左右がバラバラ。
ところが、カラダという容器は、きれいな対称性が保たれています。
どこかに、はみ出している、なんてこともありません。
自分は、なかなか片付けられない性格なんです。
押入れの中なんか、タイヘン。
そんな卑下することはありません。
カラダの中は、だれでも、みんな収納上手。
さすが、神さまのすることに、落ち度はありません。
ならば、その意図にしたがって、左右のバランスを大切にしてゆこう。
そう思うのが、自然ですね。
スナオなわたくしは、そう思って生きてきました。
いえ、スナオではない部類の人間ですが、これには従っていました。
おそらく、わたくしひとりの考えではないでしょう。
左右のバランスの重要性は、さまざまな指導者も指摘されています。
さまざまな場面で、重要視されています。
もちろん、走りにおいても、同様です。
左右バランスのよい走りが、効率良い走りを生む。
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観察
天体を、じっと見つづける。
その運用を、記録してゆく。
すると、地球のまわりを太陽が回ってゆく、という考えに矛盾がでてくるのだそうです。
なんだか、違和感。
どこか、腑に落ちない。
そう感じられる人間の非凡さ。
そして、やがて地球のほうが、太陽を回っているんじゃないのか。
そうすれば、合点がゆく。
という発想までゆきつく、すばらしさ。
とはいえ、それが受けいられるまでの苦難の歴史は、長く、暗い。
おおくの命も、奪われてゆきましたし。
利権というものの前で。
現在と、変わったところはないですね。
歴史は、くり返す。
もっとも大切なのは、目の前の事実。
その事実へのアプローチ法の基本は、観察。
で、あらためて人間の走り方、をみつめてみています。
まずは、自分から。
あれ、自分は、対照的には走っていない。
右と左が、同じじゃない。
これは、ゆっくり走る、というより、ゆっくりしか走れない自分だけのものなのか。
あるいは、自分の感性が、へんなのか。
それとも、自分の走り方が、おかしいのか。
いまのスナオな感じです。
「非対称的」のほうが、スムースに走れます。
つまり、スムースにカラダが前に動く。
「非対称的」のほが、つかれにくい。
つかれにくい。
これは、わたしのような、非力な中高年ランナーにとって、なによりありがたいことです。
やっぱり、自分だけの感覚でしょうか。
少し、深めてゆきたい。
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これからの 走りのキモは 非対称
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