BODY:
ゆっくり、ゆっくり
ゆっくり歩いてみます。
できるだけ、ゆっくりと。
スローモーションのように、ゆっくりと。
意識して、ゆっくり。
力をぬいて、一番楽になるように。
アレ、走る話題から、はずれてきていませんか。
はい、はずれるのが、わたしの人生、いえ、趣味です。
剣豪、宮本武蔵は『五輪の書』の「水の巻」で、足づかいについて次のように述べています。
「足の使ひやう時によりて大小遅速はありとも常にあゆむが如し。足に飛足、浮足、ふみすゆる足とて是三つ、嫌う足なり」。
ゆっくりゆくときも、速く動くときも、つねに歩くようにしなさい。跳んだり、浮き上がったり、とどまって体を揺すったりするのは、好ましいことではない、と。
移動の基本は、歩行。
こういう表現方法を、虎の威を借るキツネといいます、コンコン。
カゼではありません。
歩きのうえに走りは成りたちます。飛脚走りなど、特にそうです。
なんて大上段にかまえなくてもいいですが、たまには、ゆっくり歩いてみましょう。新しい発見があると思います。
ゆっくり歩くと(詩のノリで)
ゆっくり歩くと、不安定なことに気づく。
そうか、片足立ちか。
でも、不安定だからこそ、新しい動きが生まれる。
安定していたら、ドッシリ、そのままです。
ゆっくり歩くと、大地の衝撃に気づく。
そうか、足をはなして着地するのだから。
でも、衝撃を受けとめるクッション機能がある。
痛くはない。
ゆっくり歩くと、背すじがのびる。
片足のバランスをとるために、背は上へとむかう。
伸び伸びとした感触。
そうか、全身の反応。
ゆっくり歩くと、小マタになる。
そうしないと、ゆっくりにならない。
少しずつ進む。
何をそんなに急ぐのか。
思い出すこと
たまには、ゆっくりと歩いてみる。思いっきり、ゆっくり歩いてみる。
たしか、子供だったのころは、こんなふうに歩きだしていたのではなかったでしょうか。すっかり記憶の外になっていませんでしたか。
歩くのは、不安定さをうむ行為だったなあ。
歩くのは、クッション性とともにあったなあ。
歩くのは、全身を使うことだったなあ。
歩くのは、小マタでゆっくり。
今は、ゆっくり歩いていません。
「ふつう」に歩いています。
いやいや、なんでそんなに急いで歩くの、なんてときもあります。
ところで、何が「ふつう」なんでしょうか。
不安定さを感じないこと?
クッション性など気にしないこと?
体全体を使わなくても歩けること?
小マタの必要性などないこと?
ゆっくり歩かなくなって、忘れていったこと。
大マタで、ガッツリ歩く
ひとつだけ、きりかえてみてください。
それは「歩幅」です。
歩幅を大きくして、歩いてみましょう。
意識はただひとつ、いつもより大きい歩幅。
何が変わりましたか?
歩幅をのばそうとすると、感覚が変わってきます。
ひとつは、力が必要になりました。
力を加えないと、歩幅は、伸びてくれません。体も支えられません。
とくに足に力が必要になります。
ひとつは、衝撃の具合が高まりました。
力が加わったぶんの反応でしょう。
歩幅が変わるだけで、カラダの感覚は、大きく変わってゆきます。
モーレツの世界へ突入した気分。
わたしには、とってもおもしろく感じます。
どっちがイイ、ワルイ、という話ではありません。お間違えなく。
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