学びの輪、ランニングの輪

車輪は、まるいからまわる

 

電車の車輪は、まるいからまわる。
自動車のタイヤも、まるい。
自転車の車輪だって、まるい。

まるいからクルクル回転し、移動もたやすい。

もしも車輪やタイヤが四角かったら。
あるいは、楕円形であったら。

たぶん、スムースにすすむことは無理です。
力ずくですすもうとすれば、ドタバタドッテン、グルングルン、乗り心地はとんでもなくなります。

あたりまえじゃん。
あたりまえなんですが、ときに忘れてしまうことがあります。

 


 

学びの成分

 

話は、飛びます。
ひとくちに「学び」といっても、実はその成分は「3つ」からなり立っていると考えています。

ひとつ目は「疑問」の成分。

アレは何なの?
これは、どうなっているんだろう?
なぜ、そういうの?
学びの中核をしめている、梅干しのタネみたいなものです。

ふたつ目は「答え」の成分。

疑問を解決したひとつの到達点。
かくかく、しかじか、と説明できるということです。
学ぶと、少しずつ、答えられる内容がふえてゆく。
答えを蓄積してゆく場として、学校があります。

みっつ目は「伝達」の成分。

自分で納得した答えを、こんどはひとに伝えてゆく。
こうなっているんだよ。
伝えることで、学びはさらに深まる。

この3つが豊穣して、本当の学びがはぐくまれる。

疑問→答え→伝達

 


 

学びは、案外、止まりやすい

 

学びは、しばしば続きません。

たとえば、学校で学ぶ「教科」は、おおくの場合、答えをだす段階で止まってしまいます。
止まりやすい時期、があります。

期末試験。
入学試験。
卒業試験。
入社試験。
資格試験。

こういうラインをふんだところで、さあ、この学びは卒業だ。
国語、算数、理科、社会。
いまも、学んでいますか?

伝達をなりわいとされる方もいます。
学校や塾であれば、先生。
スポーツ現場であれば、コーチや指導者。

さて、伝達は日々深まっているでしょうか。
つまり、回転をつづけていますか。
マンネリ化しませんか。

 


 

学びが止まらないために

 

どうしたら、学びを止めないでゆけるでしょうか。

いえ、すべてのことに学びつづける必要はありませんし、実際、それは不可能でしょう。
みなが一生、ピタゴラスの定理を学びつづける必要なんてありません。

でも何か学びつづけるものをもつ、ということは人生の中でおおきな羅針をもっているようなもの、じゃないでしょうか。

生活のハリがでます。
くわえて、お肌のハリも(本当です)。

では、どうしたら学びの道を歩めるでしょうか。

そのひとつは、「学びの3成分」をまとめて、車輪をつくること。
そう「疑問」→「答え」→「伝達」で、車輪をつくります。
車輪にすることで、まわることができてゆきます。

そして回転の原動力は、もちろん「疑問」です。

疑問をもてれば、疑問がふくれれば、学びの回転は、より力強く、おおきくまわりはじめます。
よね?

 


 

ランニングは、おおきな輪をつくる

 

走る。

なにも「飛脚走り」にこだわらなくても、けっこうです(笑)。
地下タビワラジをそろえなくても、ぜんぜんオーケーです(大笑)。

現代人にとって、とくに大人にとって、走るという行為は、とんでもなく「非日常的」です。
狩りをするために、週に6日は野山を走りまわっている方がいましたら、手をあげてみてください。
しーん。

そんな「やろうとすれば簡単」だけど「やろうとしなければ決してしな」走りを、ちょいとしてみる。

すると、どうなるでしょうか。

非日常的」な「とんでもない刺激」が、一歩一歩、ガンガンとカラダにうち寄せてきます。
大衝撃、といっていいでしょう。

さあ、カラダは、何かを感じざるをえません。
大きな疑問が、わいてこないわけありません。

くわえて、走りの質によって、走りながら変化してゆくカラダによって、走りとともに加わる年齢もくわわって、カラダに湧いてくる疑問は、さらにコンコンと尽きません
奥の深さ。

なんて不思議な世界だ。
この疑問を原動力としたとき、走りの輪は、一生モノの回転になるんじゃないでしょうか。
走るって、なんておもしろい行為!

 

たーさん
走ってみれば 疑問の泉 あふれ出す

 


 

 

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