今という重み
考えてみれば、
考えなくても、
わたしたちが生きている場は「今」しかありません。
きのうのことは、すでに過去のことです。
あすのことは、あしたになってみなくては何モノでもありません。
「今」を生きよ。
「今」を大事にせよ。
個人も、おおく「今」の大切さを語っています。
ランニングの調子
受験のメド
仕事のすすみ具合
体調
どんなものでも「今」の自分を知ることで、次の方向性がだせてゆくと思います。
シャーロック・ホームズは、はじめて会った相手であっても、「今の様子」を深く観察することで、
どんな仕事をしているのか
どんなところに住んでいるのか
どの道を通って、ここまできたのか
といった、その人の過去から、
これから、どんな事態になりそうなのか
この先の何に不安をかかえているのか
といった未来のことまで、描いてゆきました。
「今」を最大限に活用できるからこそ、時間の幅を広げてゆけるのでしょう。
今という重みを大切にしたい。
「今」を深める、ひとつの方法
それでは、「今」をみる目は、どうしたら深めてゆけるでしょうか。
たとえば、「今の走りはどんな調子ですか」と問われて、「はい、かくかくしかじかです」と今の自分をスラスラと答えることができるでしょうか。
なかなか、むつかしいものです。
わたしも苦手ですし、器用でもありませんから、「今」をうまく活用できなかったのです。
そんなある日、週に数回、近所をちょっと走るようになって1年もたっていない頃の昔の話です。
本屋さんで、日記帳コーナーが目に入りました。
年末でした。
本屋さんは大好きな場所で、週に1〜2回は顔をださないと、落ちつきません。
ところが、それまでは、年末恒例の日記帳・手帳コーナーは素通り、というか、存在すら意識していませんでした。
そもそも日記なんて、小学生の夏休みの宿題以降、エンのない存在でした。
そのときの小学生日記だって、毎日書きすすめたわけでもなく、あとでまとめてやっつける、という日記風つめこみ創作集みたいなものでした。
はやい話、コツコツは苦手です。
ところで、走りがだんだん習慣になってゆくと、走りながらいろんな考えが浮かんでくることに気がつきました。
おお、いいアイディア。
でもそれは夢と同じで、走っている時間だけ上演され、すぐに忘却の彼方にゆくものでした。
これを残しておけないか。
そんなときです。
目の前に、日記があらわれたのです。
運命の出会い。
つい欲張って
日記帳に出会った当時、すでに立派な中高年メタボオヤジでしたが、吟味した結果、どっしりと重厚な「10年当用日記」というのを買い求めました。
まだ、人生には寿命がある、なんてこと身に染みていなかったんでしょうね。
そこに、今日の走り、体調、考えたこと、感じたことなどを書きしるしてゆきました。
もちろん、日記ですから、書く内容は走り関係だけでなく、その日の印象に残った出来事となります。
走らない日だってあるわけですし(当初から3日つづけて走らない、3日つづけて休まない、の精神)。
つづくかな、という不安はありました。
ときに、2日分、3日分を書くこともありました。
しかしやがて不安は杞憂に終わってゆきます。
日記は、わたしにとって「なんとか埋める」ものから、「書かないと落ちつかない」ものへと変わっていったのです。
トイレの「紙」みたいな存在になっていったのです。
なくても命にはかかわりませんが、ないと気持ちわるい。
だって、「今」を文字にしてゆくことって、メチャおもしろい。
人に読ませるものでもないから、内容も自由。
実際の10年当用日記
もっと書きたい
10年日記といっても、大判ですから、1日の分量はそれなりのスペースが用意されています。
ときには、ネタ集めに苦労することもあります。
反対に、そのときの気持ちや感情をもっとあらわしたい、という日もでてきました。
とくに長い距離を走った日、ものすごい感動的な走り方を体験しちゃった日、レースにでた日など。
じゃあ、そういう分は、ノオトに追加しておけばいいじゃないか。
そういう理由で、10年ほど前からは、日記のほかにA4版の大型ノオトを買い求め「ランニングノオト」として書きはじめました。
ランニング関連に特化。
ただし、お散歩だけの日も書きたくなる。
ノオトだから、分量は自由。
1行の日もあれば、2ページほどになることもある。
日記じゃないから書かない日があってもいい(結果として、ほぼ毎日書くことがでちゃっていますが)。
気がつくと、10年日記帳は、昨年2冊目が終えました。
20年か。
ノオトは、現在13冊目に入っています。
ところで、残念なことがおこりました。
愛用していたタカハシ書店の10年当用日記帳が、昨年、廃版となってしまったようなのです。
同じ型の日記帳が、3冊目は手に入らない。
まあ自分の寿命を考えれば、もう10年日記なんて欲ばるな、というお告げなのかもしれません。
今年から、ほぼ同じ分量をかける5年日記へとシフトダウンしました(笑)。
実際のランニングノオト、時代とともに書式は変化中。
記録が「今」を厚くする
日記帳も、ランニングノオトも、そのときの「今」の自分をしるしています。
ですから、じつは書いたそばから、それは「過去」になってゆきます。
ところが、過去になってしまった記録も、読みなおしてゆくと、そのときの「今」が再びよみがえってくることに気がついたのです。
すべては、つみ重なって、今に関係している。
これが、日記やノオトをつづける原動力にもなりました。
あ、ちょうど2年前のあの日、足首に違和感を感じた走りは、力まかせにガンガン坂をくだったときだったなあ。
坂をのぼりながら、急にフワッとカラダが軽くなったと感じたあの走りの感覚は、とび上がるほど感動だったなあ。
暑くて、フラフラで走っていたあの日、途中の自販機でのんだ麦茶はノドにしみたなあ。
まったく我流ではじめたランニングともいえないような走りの1場面1場面が、紆余曲折のなかで、パッと目の前に再現されてくる。
5年10年という時をへだててもなお、たしかに今につながっている。
だって、自分の体験なんですから。
長くクネクネとした坂をのぼり、ふと汗をふき息を整えながら、来た道をふり変えると、ふもとのスタート地点まで見おろせたときに感じるワクワク感と同じものです。
こんなに遠くまで、来ていたんだ。
過去かと思っていたものが、記録として目の前にあらわれると、それはまぎれもない「今」になっているんですね。
あるいは、「今」につながっている。
「今」が広がってきた。
そう感じています。
記録する 今をつづれば 過去も今
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