「さむさ」と「さむけ」

つのる、さむさ

 

あなたかわりはないですか?
日ごと、さむさがつのります

ごぞんじ、都はるみさんの名曲「北の宿から」の歌い出しです。

着てはもらえぬセーターを、涙こらえて編んでますか?
そんなひと、いません。

さむくなりましたね。
寒の入り、とはよくいったものです。
朝は、あたりまえに氷がはって、あぜ道はサクサクと霜柱をふむ音がにぎやかです。

これが冬です。
そして冬があるからこそ、春の楽しみもうまれます。

ところで、さむさというのは「環境」です。
自分をとりまくまわりの状況です。
気温という指標でも、表現できます。

ですから、おなじ状況におかれたひとは、「おなじ」環境にいます。
氷点下5℃の朝といえば、そこのひとは、だれもが氷点下5℃の中にいるというわけです。
うんとさむく感じるか、ちょっとさむいと感じるか、まだまだ平気と強がれるか、という差はありえますけど。

 


 

さむけの出現

 

ぞくぞく「さむけ」がする。
このとき、温度計をみても、意味はありません。

あたたかくした室内で、コタツにもぐっているときでも、ゾクゾクすることはあります。
真夏の、セミがミンミンと鳴いて、汗がふき出るようなところであっても、ゾクゾクとさむけを感じることがあります。

これは、みながおなじに感じる、ことはありません。
そのひと「個人」に生じた、個人的な感覚です。

さむけがするんだから、体温が下がっているのかもしれない。
ふだんは36℃くらいだけど、ひょっとしたら34℃とか。

体温計をさしこんでみると、逆に上がっていることが多いです。
38℃なんてこともある。
いやいや、40℃をさし示すのに、ゾクゾク感じることもある。

これって、暑いはずじゃないの。
それなのに、さむけでゾクゾク。
さむい、さむい。
いったい、さむけって、何者なんでしょうか。

 


 

あつさ、さむさを決めるもの

 

ひとの体温は、だいたい36℃オーバーくらいです。
このくらいが、カラダのもろもろの活動が一番しやすい温度、といわれています。
だれに教えてもらったわけではないけど、ほぼ、人類共通
赤道直下にくらすひとも、北極圏にくらすひとも、おなじ。

ですから、体温36℃をたもちやすい気温が、あつくもなく、さむくもなく、といったいい塩梅ということになります。
そんな日が少なくなった気がしませんか。

犬や猫は、もう少し設定体温が高め。
鳥は、さらに高め。

カラダにちょうどいい体温を決める担当が「体温中枢」と「免疫中枢」の2つですね。
体温中枢」は、平熱を維持する主役。
免疫中枢」は、おりおりの体調にあわせて、平熱を上げる働き。
免疫機能は、平熱時にはホドホド働いていて、体温が上がればあがるほど、活動性を上げるシクミをそなえています。

ですから、平熱より高い体温になっている、というのは「免疫機能」が活動を活発にしていますよ、というカラダからの声です。

たとえば、カラダにバイ菌が入ってきたとき。
たとえば、カラダにガン細胞集団が活動しはじめたとき。
たとえば、免疫機能自体が暴走しはじめたとき(膠原病など)。

そのほかに、体温中枢自体の働きをプッシュする甲状腺ホルモンの過不足などでも、体温は変化してゆきます。

 


 

さむけの意味するもの

 

さむけは、まったく個人的な感覚です。

体温がいつもより上がっていても、感じます。
むしろ上がってきたときの方が、感じやすい。
まわりのひとが「今日は暑いね」といっているときだって、感じます。

じゃあ、さむけの正体って何でしょうか。
これこそが、カラダからの声ですね。
です。

なんて言っているんですか?
もっとあたたかくしてね」です。

え?寒いよ、じゃないんですか。

カラダは、意外とシャイです。
そのまま、ストレートに「本音」をいうわけではありません。
わたしたちは、声通りに受けるだけじゃなくて、本当にいいたいことに耳を傾ける必要があります。

その代表例が「痛いよ」という声です。

痛いよ、だから痛み止めチョーダイ、なんていう単純回路で受けとめていませんよね。
痛いよ、だからこうして欲しい、というより具体的な内容がもっとズラズラとあるはずです。
そこに親身に沿ったとき、はじめて痛みの解決につながることも少なくありません。

ちゃんと、カラダからの声を受けとめていましたか。

 


 

さむけの受けとめ方

 

ゾクゾクするよ。
カラダからそんな声がでたとき、どうしていましたか

ガマン、ガマン。
強いですねえ。

熱を測ったら上がっているので、解熱剤をのもう。
カゼみたいだから、カゼ薬をのもう(解熱剤も入ってます)。
冷えピタはろう。
上がった体温を、で下げようという作戦。

病院へゆこう。
まあ、その道のプロにゆだねる。

タキにうたれてこよう。
こんなひと、いないか。

さむいんだから、体温は上がっているけど、もっとあたたまろう。
卵酒いこう。
数値より、自分の感覚を大切にする。

そのときの状況(いそがしさなど)、時間(昼か夜か)、場所(自宅か、出先か)、自分の信念、知識、習慣、持ち金などでカラダからの声への答え方はさまざまです。

どれがいいでしょうか?
一律な正解はない、かもしれません。
ゾクゾクのひとつの可能性は「カゼ」です。
カゼだったら、どんなことをしても、逆に何もしなくても、みな普通はなおっちゃうからです。

だから、くわしい経過なんかを「記録」に残したり「観察」しない限りは、どれでも結果オーライとなるから、比較もない。
ですから、次の行動が変わることもない
いつの間にか、自分の方法が、自分の信念にまで昇華してゆく、こともあります。

 


 

比較ということ

 

ところで、選択の本質は「比較」です。
場合(1)を選んだときは、(1)がいい理由と、がそれよりイマイチである理由で、本来は成り立ちます。

絶対の正解、というのは学校の試験以外には、まずありません。
世間は、あっちもあるけど、こっちもだめじゃない、ということで満ちています。
唯一絶対なものを選ぶのじゃなくて、迷いながら、決めてゆく。
だって、そんなもの、ないですから。

ですから、比較の目は大事だと思うのですが、まあ、そういうのが根付かない風土です。

広告も、比較はいけない、なんて規制されてるみたいだし。
トヨタは、ホンダや日産より、ここで抜きん出ている、なんてCMありません。

でも、くらしの中では、けっこう大切な視点なのかもしれません。

ためしに、さむけの対処法の比較なんかは、いい入門編になるかもしれません。
なにより、自分だけで考えられます。

そしたら、故障だって応用がきくようになります。

走っていて、どこかを痛めた、というのも同じですね。
どういう対応しようが、だいたい時間ともになおっちゃう。

でも、です。
このとき、カラダは本当は何を求めているんだろう、と対応法を比較しながら、真剣に考えてゆくと、アッという新展開が開けることがあるんです。

それが、カラダの声の真価です。
予言にもなるんです。
まるで、運命をかえてゆくオミクジみたい。

次回、もうちょっと考えます。

たーさん
どんな手を うってやろうか このさむけ

 


 

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