アンバランスの先生
わたしの家には、1本の「枝垂れ桜」があります。
春には、ソメイヨシノに遅れて、花をつけます。
枝垂れ具合が、なんとも好きです。
桜の季節になったら、枝垂れ桜にも注目。
そして、枝垂れ桜の姿かたちにも目を向けてみてください。
まず、幹は必ずしも、まっすぐに伸びていません。
というより、けっこう傾いていませんか。
枝も、大空に広がってゆくわけではありません。
先にゆくほど、風にたなびく。
まさに、「枝垂れ」の名前、そのままです。
幹の生育は、いがいと早いです。
そして、年とともに、枝振り、枝垂れぶりが、どんどんと変化してゆきます。
さて、どの年代の枝垂れ桜が、好きでしょうか。
若い木。
どっしりとした木。
老木。
それぞれに、味わいを感じませんか。
そして着目したいのは、共通してみられるアンバランスさです。
杉のようなまっすぐな木は、見たことはありません。
そして、その変形の中に「美」が宿っています。
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人間も同じでしょうか
人間と、枝垂れ桜。
なんだか、似ていませんか。
そう感じるのは、自分が、枝垂れてきたからでしょうか。
歳ごとに、変化してゆく。
もう少しリアルにいえば、歳ごとに枝垂れてゆく。
ま、これに抵抗されている方もいますけど。
ただ、そんなに枝垂れ具合を、楽しめるようにもなってきました。
枝垂れるようになって、走り自体も、楽に感じられるみたいな。
そもそも、「動き」というのは、バランスをくずさないと始まりません。
若い枝は、少々の風では、びくともしません。
老いた枝は、頬をなでるような風で、ゆらぐ。
バランスを、くずしやすい。
これ、幸い。
だったら、アンバランス自体を楽しむ。
アンバランスを、アンバランスのまま、利用する。
カラダの変化に、過剰に反応される方がおられます。
とくに、画像の変化とか。
たとえば、レントゲン写真。
たとえば、MRI写真。
ここが、こんなに変化してしまった。
だから、痛みはもう治らない。
だから、前のようには走れない。
じゃあ、ないんですよ。
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神サマは、裏切らない
人間は、アンバランスにつくっておこう。
歳とともに、変化をあたえよう。
神サマの、基本設計理念です。
でもこれは、人間をこらしめてやろう、という意図ではないはずです。
そこから、何かを見つけなさいよ。
工夫を、つづけなさいよ。
そこに、味がでるんだから。
かつては、神サマの声を、聞く耳がありました。
変化にあわせる工夫、にちゃんと目をむけていました。
それが、「年季」というのを育ててゆきました。
最初はうまくゆかないことにも、時間をかける。
時間が、だんだんとカラダになじんでゆく。
同時に、時の流れも、ゆっくりしていたのでしょうか。
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理想主義
ところがです。
現代は、アンバランスはよくない、という流れがそこかしこに。
時の流れも、否定されることさえあります。
アンチ・エンジングですから。
右と左をあわせる努力。
上と下との調和。
本来あるべき「理想」の追求。
そもそも、「理想」というのは、何者なんでしょうか。
枝垂れ桜に、理想の型って、あるんでしょうか。
1本1本、それは個性にしか見えないのですが。
ところが、人間の場合、そうではありません。
右と左のバランスの差が、気になる。
背骨の間隔の幅が、ちがっているのは、よろしくない。
ヒザの上下の骨の間のバランスが、ビミョウに違っているね。
足のアーチの左右差が、ちがっているよ。
はい、「理想」をつくりあげるのは、勝手です。
でも、その発想で、ひとをあてはめることが可能なんでしょうか。
そもそも、「理想」って、なんでしょうか?
加えて、ひとりの人間の人生を、ずっと同じ理想枠にとどめておくことは可能なんでしょうか。
どの年代が、理想なんですか。
それを過ぎたら、ドーなるの?
こういう発想を、神サマは、期待していないような気がします。
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自然体
しつこくなりますが、神サマは、人間をアンバランスに設計されました。
しかも、そのアンバランスさは、歳とともに変化してゆきます。
つまり、一生涯、変化しつづけるアンバランスさ。
でも、このアンバランスさが、真のバランス感覚をうんでくれます。
バランスがくずれなければ、動きは生じないのですから。
そして、最初からバランスが上々ですと、バランスに意識が向きにくくなります。
たとえば、最初から勉強のできるコは、勉強の工夫に気がつきません。
最初から駆けっこの速いコは、走りの工夫に目がゆきにくい。
そんな、ノリです。
わたしたちに、神サマから、与えられた使命。
それは、自分のアンバランスさとどう付き合ったらいいか、を考えてゆくこと。
アンバランスさの変化に、気づける目をもつこと。
人ごとに、しないこと。
田舎では、重労働の結果からか、腰がグイッとまがったバアさん、ジイさんがいます。
それでも、坂道をのぼり、草をむしり、ジャガイモを背負っておりてくる。
ふう、途中で一休みして汗をぬぐう姿のカッコ良さ。
90を過ぎて現役、という方も少なくありません。
まさに、究極の人間枝垂れ桜。
天然記念物にしたいくらいです。
生き方の、ひとつのお手本。
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