必要なバランス
人間に、バランスは、どの程度、必要でしょうか。
もし必要なら、どのくらいあったらよろしいでしょうか。
というのも、バランスといっても、意味するものがたくさんあるからです。
生き方の、バランス。
考え方の、バランス。
ヒトつきあいの、バランス。
公私の、バランス。
仕事の、バランス。
こうみると、わたくしには、苦手なものばかりです。正直申し上げて、決して、バランスがよい、とはいえません。
片よっている、という方が適切かも。
ですから、きょうから改善しよう。
というはなしでは、ありません。
別に、今さら、いいじゃないか。
こうに考えてゆくこと自体、バランスがいいとはいいがたい。
でも、走りにだけは、バランスはあった方がいいかも。
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走りのバランス
走りには、バランスはあった方がいいでしょう。
だって、カラダへの負荷が、ちがってきませんか。
くわえて、走りの効率性にも、関係してきませんか。
たとえば、走りのバランスがよくないと、疲れやすくなりそうです。
くわえて、故障の危険性が、ましそうです。
そして何より、たのしめなくなってしまうかも。
走りは、苦行じゃありませんから。
罰として、校庭10周走ってこい、というのは、むかしのはなしです。
さあ、たのしく走ろう、それでいいじゃないですか。
ここで、走りのバランス、ということを考えました。
ただし、そのままだと、ちょっとつかみどころがない。
なので、もう少し、具体的な方向へ入ってみます。
走りのバランスの根っこは、どこか。
そのひとつに、足首は不可欠な着眼点。
そう、考えてきました。
なにしろ、走るのはダイナミックな行為です。
それを支える基盤として、足首を考えなくてどーよね。
その足首には、2つの大きな役目がありました。
重力と反力の2方向からの荷重を支える「礎石」としての役目。
そして、安定さをつくる「心柱」の受け手としての役目。
その役割の中心人物が「距骨」だったのです。
(わたしの個人的見解)
距骨が、この2つの役目をうまくはたすこと。
これこそが、自分にあった走りをしてゆくカナメになるはず。
といって、江戸時代は、距骨という名前も構造も知られていませんでした。
それなのに、江戸人は、みな距骨感覚がすばらしい。
もちろん、飛脚も。
(個人的感想)
名もない距骨を、どう知り、どう活用できたのでしょうか。
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名前は知らなくても
江戸人のなかで、「距骨」の存在をしっているひとはいませんでした。
距骨という名前も、ありませんでした。
たぶんね。
だから古いひとは、という発想はまってください。
たしかに、距骨というコトバは知らなかったでしょう。
距骨という存在も、知らなかったでしょう。
でも、足首の中に、走りのバランスをにぎるカギがある。
それは、飛脚の走りだけではありません。
歩きも、同様です。
歩くときは、歩くときで、ハンパない距離を歩くこともありました。
お江戸から、お伊勢参りとか。
すべて、自分の足での行脚です。
走る、歩くだけではありません。
毎日の生活だって、らくではありませんでした。
でも、そういった疲れを生みにくくする工夫。
疲れをいやす工夫。
そういう身体感覚を、持っていたんです。
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青竹ふみ
青竹ふみ、というのをご存知ですか。
青だけじゃなくても、けっこうです。
なにしろ、竹は切っておけば、どんどん変色してゆくものですから。
今日び、青竹ふみを知らない世代が台頭しています。
時代の流れを感じています。
おじいちゃん、おばあちゃんの智恵、だったのでしょうか。
スパッと切った青竹を床において、その上をフミフミするものです。
いくつかの流儀があります。
まず、足ウラのどこでふみますか。
マメな方は、足先からカカトまで、まんべんなく。
足ウラ全体を、モミモミ。
こういう使い方が、代表例でしょうか。
でも、フミフミは、いがいと痛いかもしれません。
そっと、乗るだけでいいんです。
乗って、静止。
その場合、足ウラのどこで乗るかです。
1番気持ちのイイところ。
これが、正解です。
だって、気持ちのよさが欲しくありませんか。
それでは、足ウラのどのあたりで乗れば、気持ちイイか。
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じっくりと静かに青竹に乗るだけで、あーイイ気分(距骨が乗ってます)。
ソコです
青竹ふみで、気持ちのイイ位置。
それは、足首が乗ってきませんか。
その中心部に「距骨」がきていませんか。
逆にいえば、距骨を青竹の上にのせると、気持ちがよくなる。
距骨は、足首周辺の数々の骨の中で、唯一、フリーな存在でした。
ほかの骨は、相互に、腱でつながっています。
その中に打ち込まれた「クサビ」みたいな存在です。
なので、不安定さがあります。
なぜ、そんな不安定さが、あるのでしょうか。
それは、礎石の役目、心柱を受ける役目をになっているからですね。
動きの自由さが、必要ですから。
ただ、そのために、不安定さもかもしだしてしまう。
それを、スパッと定位置に組み込ませる工夫。
これが、青竹の上に足ウラをのせる、なんですね。
という感慨がもてたら、そっと青竹の上にのってみる。
青竹だけに、限りません。
ほそい「シノ竹」みたいなのでも、いいです。
1本歯ゲタでも、いいです。
もちろん、ふつうの2本歯ゲタだって、同じですよ。
だから、昔は、男女をとわずゲタが愛用されていたんですね、多分。
ああ、足首の中心に刺激が入ってくる。
ここを中心に、床からの反力を受けているのだな。
ここを中心に、体重を受けているのだな。
距骨よ、今日もありがとう。
(夜霧も今夜もありがとう、のノリで)。
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シノ竹の上で、距骨感覚を味わうのも、一興です。
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一本歯ゲタでトコトコ歩くコツは、距骨に体重がのることです。
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