まちがってませんか?
本能の変、なんて、聞いたことがありません。
ひと文字、足りなくはありませんか。
アンタは、いつも1本ぬけてるね。
正しくは、「本能寺の変」のことでは、ありませんか。
ときに1582年6月21日未明。
場所は、京都本能寺。
ここに100人ほどの家来を同行して滞在中の織田信長を、家臣の明智光秀が謀反をおこして襲撃した事変。
信長は、寝こみをおそわれ、包囲されたのを察すると寺に火をはなち、自害したといわれています。
ただし、信長の遺体は、いまだに見つかっていません。
ほんとうに、本能寺で果てたのでしょうか。
という、話題ではありません。
ですから、まちがいではありません。
「本能の変」で、よろしいのです。
いつもの、造語です。
本能寺の変は、日本史上、もっとも有名な事変のひとつといわれています。
同様に、「本能の変」も、大事件なんです。
おこっている時代は、「今」ここです。
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テキは、本能にあらず
本能は、生きるスベ、基本中の基本です。
生存のための、中心プログラミング。
だれもが、もって生まれるものです。
ですので、生存の司令塔でもあります。
わたしたちは、本能の導きによって、この世に育ってゆきます。
とくに、自然界では、生涯にわたって、生きる指標となってゆきます。
野生動物は、このスタイルをくずしません。
ところが、人間だけは、この流れから、はずれ出しました。
本能の導き、とはちがう道に踏みこんでゆきました。
この道を、「文明」とよぶことがあります。
文明とは、本能からの逸脱。
ですから、文明が進めば進むほど、本能がかくれてゆくんですね。
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本能の根っこ
なぜ、わたしたちは、本能からハズれた生き方になってゆくのでしょうか。
それは、本能の最初のプログラミングの特徴のためかもしれません。
いちばん最初のプログラミング。
それは「快」を求める設計です(わたくし説)。
生まれたばかりの人間。
わたしたちは、生きるための力は、わずかです。
歩けない。
しゃべれない。
食べものを自分で手に入れられない。
ウンチの始末ができない。
要介護5状態。
そのなかで、発揮されるのが「快」を求める本能。
オッパイを飲ませてもらえればうれしい。
オムツをかえてもらえればうれしい。
きれいサッパリにしてもらえればニコニコ。
会話はできなくても、快の伝達で、親の愛に答えてゆく。
「快」の伝達が、コミュニケーションツール。
「快」がつむいでゆく人生のスタート。
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本能のよろめき
だんだんと成長してゆく人間。
野生の中で育てば、快の導きで、本能が花開いてゆきます。
しっかり歩き、走りだす本能。
食べものを手に入れてゆく本能。
すみかを、キレイにたもつ本能。
いずれも、快にむすびつく行為だからです。
すなわち、自立への道。
人間だって、ずっとずっと、こういう生活を送ってきました。
それこそ、何万年ものあいだ。
ところが、です。
人間は、ここに「知恵」が加わってきました。
動かなくても、すませられる知恵。
毎日、食べものを探しにゆかなくてもすむ知恵。
雨露をしのげる住まいを作るという知恵。
こちらの方が、より「快」じゃないか。
くわえて、知恵の「伝承能力」も、身につけてゆきます。
ことば、そして文字です。
ときがたてばたつほど、知恵が、つみ重なってゆく。
これを「進化」とよびます。
知恵と進化の集大成が、「文明」とよばれるものでした。
そして、文明がすすむほど、本能の出番がなくなってゆく。
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本能にたよらなくてもすむ時代
文明は、人間のもつ本能の依存度を低下させてゆきます。
本能にたよらなくても、生きてゆける。
しかも、この方が「快」と感じられる。
なにしろ、自分の足を酷使しなくても、移動できちゃうんです。
最近では、テレワークなんかも、おおはやり。
食べものを、探しまわらなくて、すむんです。
コンビニ、スーパー、レストランで、何でも手に入る。
餓えとは無縁の生活。
異常気象は気になっても、家のなかでは冷暖房完備。
ああ、快適。
これらの共通点。
「動かなくても、働かなくても、くらせる工夫」。
なんて「快」なんだ。
たしかに、本能は「快」を求めるプログラミングを最初に用意しました。
それがいつの間にか、「快」プログラミングが使われるだけで、そのあとに用意されているプログラミングがつづいてゆかない。
本当の本能は、自分で動けるようになってからが、本領発揮のはずだったのに。
「快」以降の本能が、ねむったままの状態。
ま、そんなカタイこと、いわなくってもさ。
十分、生きてゆけるじゃないですか。
この方が、快適でしょ。
何でも、ポン、チン、ポチ、ですんじゃえるんだから。
おおくの方は、そう思っておられるんでしょうね。
そう思っているはずです。
そういう生活を甘受しているわけですから。
でも、本当にそれで、大丈夫なんでしょうか。
気づいたひとは、唖然としてくるんです。
カムバック、本能。
いま、本能が大変なことになっているんですよ。
だから、いま何とかしないと。
この状態を「本能の変」とよびたいんですよ。
では、どこからこの事変に、切りこんでゆけばいいでしょうか。
(つづく)
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本能を 忘れた今は 大事変
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