なやみよ、こんにちわ
なやみ多きお年頃、はとうの昔のはずです。
いまや、サトリをひらき、どっしりとした生活、であれば幸せですが、そんふうにはゆきません。
生きてゆくかぎり、なやみは尽きないものです。
人生というのは『僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る』というべきものですから、宿命なんでしょうか。
高村光太郎さんも、そうおっしゃってました。
ランニングでも、例外ではありません。
いつかは走ってみたけど、なかなか決心がつかないな。
でも、いつか、いつかは。
走りはじめてみたけど、なかなか続かないな。
でも、いつか、いつかは。
走りはじめたら、足が痛くなっちゃったな。
でも、いつか、いつかは。
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なやみに国民性って?
ある中年男性が、ダンス教室に入ろうかどうしようか、と「なやんで」いる場面からはじまる日本映画がヒットしました。
男が、しかも中高年にもなって、ダンスなんてどうなんだろう。
リズム感のない自分が、ダンスなんて踊れるのだろうか。
場ちがいなひと、で終わっちゃうかな。
なやみは、つきません。
ウジウジして、行ってはもどる。
そのモヤモヤした「なやみ」を共有することで、観客ももり上がります。
日本でヒットしたものだから、アメリカ版にリメイクして撮り直そうという企画が持ちあがりました。
ところが、冒頭の「するか」「しないか」のモヤモヤ導入部はカット。
まず、始めてみる。
物語は、そこからスタートとなりました。
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なやみの正体
ところで、「なやみ」って何でしょうか?
それは「まよっている」ものです。
どうしよう、どうしたらいいだろう、どこから手をつけたらいいだろう。
ああ、こまった、こまった。
それが「なやみ」の正体です。
まよっているのだから、動きようがありません。
そして、実はわたしたちは「なやみ」が好きです。
いえ、好きです、なんて表現は適切ではありませんね。
なやみに、翻弄されやすい。
自分がなやみを抱えているものだから、他人のなやみにも共感を覚えやすい。
だから、ダンス教室に入ろうかどうしようか、のなやみが人ごとでなく味わえるんですね。
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なやみを、「問題」化すると
なやみ、から離れてみます。
にたようなものとして「問題」があります。
して「問題」とは何でしょうか?
それは強引にいっちゃうと「選択するもの」です。
Aにするか、Bしするか、はたまたCにしようか。
なやみと似ていますが、微妙にニュアンスはことなります。
でも、似ているから「なやみ」としてかかえていることを「問題」に切りかえることも可能です。
アタマを切りかえられるか。
わたしたち日本人は、物事を「なやみ」として、かかえこみやすいよいに思います。
選択肢を示されてから考える教育のおかげでしょうか。
マークシートとか。
目の前に、選択肢がないと、途方にくれる。
それが、なやみの正体。
欧米人は、「問題」としてとらえる教育力を感じます。
自分で選択肢をつくってゆく発想。
ダンス教室に入ろうか、どうしようか、長時間まようのは、問題としてとらえる人には、共感をもてません。
「入る」か「入らない」かの選択の問題だ。
「入らない」なら、この問題は終了。
「入る」なら、つぎにどんな選択肢をつくってゆくかだ。
どんな手続きをふめばいいのか、何を用意すればいいのか。
選択、選択、選択の連続でストーリーが動きだす。
観客も、そうでないと、物語に入れない。
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ドアをつくる楽しみ
なやんでいる、と自覚したら、じゃあ選択肢をつくってみよう。
わたしは、それを「ドアをつくってゆく」イメージでもっています。
ドラえもんの『どこでもドア』ならぬ『選択ドア』。
201号室のドアをあけて、こう進んでみる。
202号室のドアをあけて、そこから進んでみる。
203号室のドアをあけて、そこに見える世界に入ってみる。
経験というのは、いくつのドアをつくってゆけるか、で評価されるものではないでしょうか。
ひとつのドアしかもっていないのなら、人生を長く生きていたって、経験を語っちゃアブナイです。
若いひとの自死、という事件があとをたちません。
なやんで、追いつめられて、追いつめて、のゆく末がこれでは悲しすぎです。
いっぱいドアをつくろう。
学校が、すべてじゃない。
勉強なんて、いくつになってもできる。
今したいドアをさがそう。
なやみは、問題に切りかえて、ドアをつくってゆく。
行き詰まったら、また別のドアをつくる。
そのために、勉強がある、本がある、話せるひとだっているはず。
ドアのありかさえわからなくさせる一強社会は、おかしい。
「センセー、オナカが痛いんですけど」
「うーん、どうしたのかなあ、なやみますねえ」
「なやんでないで、選択肢を示して、解決してください」
「やられた、一生ベンキョー」
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選択肢 作りて今日は 歩みだす
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