なんちゃってランナー
ふり返ってみると、過去も、現在も、わたしは走る日よりも歩く日の方が、圧倒的に多いくらしでした。
これでは、ランニングが趣味です、というのは詐称になっちゃうでしょうか。
もともと体力も根性もありませんから、走る頻度は、どこかで目にした「3日つづけて休まない、3日つづけて走らない」に準拠してきました。
ほとんど、この原則にのっとった生活でした。
中年ではじめたランニングですが、しかし高年にさしかかってくると、それでも不具合を感じるようになってきました。
今は「3日つづけて休まない、2日つづけて走らない」ようになっています。
その結果、現在は、だいたい走る日が3分の1、散歩の日が3分の2くらいのくらしになっています。
月平均でいえば、10日走って、20日散歩。
おやおや、走る日の倍が、歩く日。
走るか、歩くか、そのどちらかは大体が毎日のくらしに組みこまれています。
走りと歩き
走りを趣味とするランナーの中には、走らない日を「休足日」として、走りとはエンのなかった日とカウントされる方がおられます。
あくまで、走ることが目的。
それ以外は、主旨からはずれる、という感覚なんでしょうか。
そうすると、走りと歩きの境界線が必要になってきます。
さて、走りの定義とは何でしょうか。
そして、歩きの定義って。
競技の世界、とくに歩きの競技である競歩では、歩きの定義は厳密です。
競歩中に、走りもちょっとはありよね、としたら、たぶん競技にはなりません。
コレコレの方式を守らないと、歩きとは認めませんよ、という世界が必要です。
ただそうなると、定義というより、ルールといった方が適切ですか。
でも、走りはの世界は、もうちょっとゆるやかです。
どんな走り方をしても、これがわたしの走り方です、といえば通用するおおらかさを持っているようです。
カメさんが、いつもより速く移動して「これこそワタシの走りです」といえば、なるほどそうかと認めないわけにはまいりません。
そう、走りは「自由形」なんですね。
自由形なのに、いろいろと目標のフォームなんて話がでてくるというのも、おもしろいと感じてはいますが。
歩きだって、深い世界
走る日数よりも歩く日の方が多いわたしには、歩きも楽しみです。
ところが、世間では、とくにランナーの中には「歩きは走りの基礎クンレン」だとか「走るほどの運動効率がえられない残念な行為」くらいにしか見られていない考えに遭遇することがあります。
歩きチャンがかわいそうです。
そんな目で歩きをみていたら、歩きが楽しくなくなってしまいますしね。
歩きには歩きの、おおきな可能性を秘めた世界があります。
ちなみに、飛脚は、ふだんのくらしの中で走ることはありませんでした、多分。
荷を運ぶときだけ、走りになったのです。
現代を生きる「走る民」ともよばれているメキシコ山中にくらすタウラマラ族の人たちも、日常のなかに走りはありません。
お祭りなどのハレの日だけ、走る。
ふだん走っていないのに、いざ走りはじめると、どうして超人的な走りまでやっちゃえるのでしょうか。
そこに、歩きの大きな可能性の一端をみることができます。
走りと歩きは、実はとっても仲のいい間柄です。
その2人の仲をとり持つヒミツに「リズム」がある、というのがわたしの考えです。
いろんな歩き型はあるけれど
歩き方を大胆に2通りに分けちゃいましょう。
ひとつは、のんびり、ゆっくり歩き。
道草をくいながら、こそが歩きのだいご味。
ふっと立ち止まっては、あたらしい発見に心ときめかせる。
こういう歩きもいい。
一方で、テクテク、スイスイ歩き。
頰に風を感じながら、カラダが宙に浮いてくるような爽快感。
同時に感じるスピード感。
こういう歩きだってある。
あふれるばかりの日差しの中での小道。
新しい景色。
何かに感謝したい日。
こんなときは、ゆっくり歩きを楽しみたいですね。
1日のスタート時。
または、イロイロあってちょっと疲れた日の夕暮れ。
カラダがスカッと感を欲しがっている日。
なんかは、スイスイ歩きの方があっているような気がします。
テクテク、スイスイ歩きというと、ときに誤解されてしまうことがあります。
これって、運動不足への罪滅ぼし歩きでしょ。
電車に乗り遅れそうになったときの、やむおえず歩きでしょ。
ガツガツしてるようで、せわしないなあ。
うーん、もったいないです。
確かに、一理ある意見です。
ところが、テクテク、スイスイ歩きに「リズム」が入ってくると、まったく別物感に浸れるようになるんです。
リズムが、歩きの世界を広げてゆきます。
テクテク歩きは、足拍数優先の法則
足拍数優先の法則というのは、「その動作の最大心拍数より、ちょっと多めの足拍数(ピッチ)をきざみつづけていると、カラダもココロも気持ちがよくなる」という、まだ誰にも認められず、ほめられず、賞賛もされていない、というか無視されている、このわたしのつくった法則です。
たとえば、歩くときのわたしの心拍数は、100をこえて110くらいです。
ということで、わたしのテクテク歩き時の足拍数は「120」としてみました。
そうそう、自分の足拍数をみつけてみるのは、おもしろい発見につながりますよ。
わたしのテクテク歩き時の足拍数は「120」。
ランニング時の足拍数は「170」、くらいだと今は思っています。
年とともに、変化するんです。
ということで、早朝のテクテク歩きを、足拍数(ピッチ)120でスタートしてみます。
慣れないうちは、手に小型のメトロノームなどをもつと簡単です。
慣れれば、だいたいカラダが覚えてきますので、ほんとに時々メトロノームで確認するくらいで大丈夫になってきます。
歩きはじめは、とっても小マタ。
でも、小マタで始めれば、準備運動もいりません。
そもそも、歩きだすのに、準備運動なんてしませんよね。
坂道にさしかかっても(坂の多い土地です)、ジャリ道でも、クネクネ道でも、同じリズム120。
調子は、歩幅で自然に調整できます。
すると、だんだんとカラダの中の血液循環が安定してきた感じになって、とっても気持ちよくなってきます。
たとえのぼり坂にさしかかっても。
そうか、カラダの中で血液循環が安定していると、静止、歩き、走りのどんな状況でも同じなんだ。
リズムにのって歩いている気持ちよさ。
あれあれ、これって、走っているときに感じた気持ちよさと同じじゃないですか。
カラダの使い方も、同じになってきているじゃないですか。
リズムにのってくると、走りと歩きは、別モノではなくなります。
リズムが、両者を一体化していました。
散歩、ばんざい。
一句 リズム歩き リズム走りと 同じかな
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