最初から、棒
長く走っていると、足が「棒」になる。
走ったあとは、足が「棒」のようだ。
昔のヒトの表現です。
こうなると、もう「まっとう」に走れなくなります。
走るどころか、歩くのにも、往生です。
どう見ても、ギクシャク。
これは、仕方がありません。
だって、足を自在に曲げられなくなっているわけですから。
ちょっとカッコ悪い。
どう見ても、フツーじゃない。
まわりからも「どうしました」なんて問われることもある。
でも、ちょっと待ってください。
昔のヒトは、棒のようになった足を、否定的にとらえたのでしょうか。
「棒」のようだ、といったでしょうが、これはおかしいことだったのでしょうか。
むしろ、好意的な表現だったとしたら、どうでしょう。
だって、「棒」になれば、疲れはてていても、動けるんです。
棒にならなければ、歩けないんです。
ということで、ひらめきました。
疲れはてても、動ける術。
それは、足を棒にしてゆくこと、じゃないか。
そう、最初から、「足が棒」なら、どこまでもゆけないか。
支持されないかもしれませんが、逆にみる「逆転の発想」。
うーん、意味ちがうかも。
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わざわざ、足を棒にしてみる
どうしたら、ふだんも足を「棒」にできるでしょうか。
力尽きたあとの自分の再現です。
むつかしいこと、ではなさそうです。
単純に考えてみます。
根が、単純なものですから。
ポイントを、2つにしぼりました。
これが、わたしの限界かも。
ひとつは、「ヒザを曲げない」。
ただし、どこぞの軍隊パレードのように、足をピンとのばすことではありません。
それじゃ、かえって疲れるって。
ダランとしたまま。
ふつうは、脚を前に出すときには、モモが上がります。
モモを高く上げるほど、ヒザも大きく曲がります。
曲がるということは、棒状から離れるということ。
モモを上げないと、力強さがだせないよ。
はい、そうです。
だからこそ、力尽きた動きに通じるわけです。
ですから、別の表現にすると「モモを上げない」。
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そして、歩幅
足を棒にする作戦、その2。
歩幅を、よくばらないこと。
よくばらないとは、歩幅をせまくするということです。
せまくするコツは、どこにあるでしょうか。
次の一歩の着地点の、その前に足をつく気持ちですね。
せまい歩幅じゃ、前に進む効率が落ちますよ。
落ちますか。
ここは、距離や時間を考える必要がありますね。
というのは、歩幅をせまくすると、力がいらなくなります。
だって、力尽きたときと同じでしょ。
力がいらないなら、力が残っている、という皮算用。
一方で、大マタは、脚力が必要です。
力は、長く走れば、尽きてゆく(わたしの場合)。
となると、ある一定の距離で、力の関係がどこかで並んでくるはず。
どこで並ぶのでしょうか。
力が尽きてくるあたりからでしょうか。
そこから先は、大マタは、力が発揮できなくなります。
小マタは、まだ動ける力が残っている。
という理屈ですから、力が尽きないランナーには無用の方法です。
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力弱さを
足を、さいしょから「棒」あつかいしてみたら。
軟弱者のわたしには、こういう発想が好きです。
向上心とは、逆のベクトル。
なにしろ、筋トレ、クンレンの逆方向が好きですから。
より力がいらない走りをさぐろう。
それが「最初から力尽きた動きを再現」してみたら、という発想の源です。
たしかに、力強く生きてゆくことは、すばらしい。
ですから、力強く走ってゆくランナーには、あこがれもあります。
といって、自分も、とは考えない。
考えられない、というのが正直なはなしかも。
このあたり、「身の丈を知れ」と、いいきかせています。
ただ、ですね。
テレビ中継されるようなマラソン大会の光景のことです。
先頭集団をひっぱる、先鋭ランナーたち。
そのなかに、足が棒みたいに見えちゃうランナーがいませんか。
いえ、ダイナミックさは、ケタちがいです。
でもそこに、力がぬけたようなイメージが重なる。
スムースさといいましょうか。
わたくしの、かんちがいでしょうか。
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お江戸生活
キモノを着る。
ゲタをはく。
とりあえず、この2点だけでけっこうです。
これだけで、なんちゃってお江戸人風になります。
もっと手をぬくなら、ゲタだけでけっこうです。
お江戸人の感覚が、ちょっと味わえます。
ゲタをはいて、ご近所を散歩してみる。
ゲタのまま、しゃがんでみる。
お手軽な動作としては、そのまましゃがんで、草をぬいてみる。
ゲタをはいたまま、物を運んでみる。
たとえば、古本の束ねたものとか。
どうなるでしょうか。
はい、足は「棒」になっていませんか。
意識しなくても、モモあげなんて不要です。
歩幅なんか気にしなくても、大マタにはなっていません。
自然に、そうなっています。
そうです、誰に教わるわけでもありません。
こういうくらしをすれば、そうなっちゃうだけ。
ですから、江戸人は、もともと足は棒。
わたしの、最近の考えです。
動作は、理屈(意識)じゃないんだよ。
くらし方だよ。
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ゲタはけば 足は自然に 棒になる
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