カゼが立った
堀辰雄さんの文学作品は、わたしの青春の柱をしめていました(ホント)。
その作品のひとつに「風立ちぬ」があります。
風立ちぬ いざ生きめやも
フランスの詩人ポール・ヴァレリーの詩を翻訳したこの一説をテーマに、婚約者の死とむかいながら、この小説はすすみます。
風が去った
さあ、生きなければならない
これをランナー風に拝借すると、こうなるでしょうか。
カゼ立ちぬ いざ走りやも
カゼが去っていってくれた
さあ、走らねばならない
カゼの意味がちがいますが、軽快、おめでとうございます。
でも、ちょっと待ってください。
立つ鳥のあとには
立つ鳥、あとをにごさず、といいます。
夏に子供を育てたツバメ一家が、南に帰ってゆこうという季節になったとします。
すると、親ツバメは、マイホームやその下のオソージに、とりかかりました。
小ツバメも、チリ鳥をもって、オソージのお手伝い。
という、あとをにごさない光景に、わたしは、まだ出会ったことはありませんけど。
何事もケジメが大事。
終わりをキレイに決めると、それで終わることではなく、次に生かすことができます。
「巨人軍は永遠に不滅です」という名文句で球界を引退されたのは、かの長島選手。
カッコいい、ひとつの区切りのつけ方です。
永遠に仏滅です、みたいなわたしには、とてもマネできませんが。
何の話でしたっけ。
そうそう、ケジメのつけ方。
嵐の去った翌日は
大きな台風が去っていった。
空を見上げると、ピーカンの台風一過。
さあ、元どおりだ、となっているでしょうか。
台風が大きければ大きいほど、去ったあとのキズアトが生々しく残されます。
おれた枝。
流された葉っぱやゴミのふきだまり。
場合によっては、土砂がくずれたり、ガラスが割れていたり、あぜんとする光景を目の当たりにすることもあります。
人体をふき抜けていった「カゼ」も「インフルエンザ」も、実は「故障」にしたって、去ったからモト通り、ではありません。
「カラダの中の台風一過」状態にあります。
その期間が長かったら長かったほど、重かったら重かったほど、あとの被害は甚大になっている可能性があります。
どこが、どのように、変わってしまったか。
そこを確認して、はじめて「回復」があります。
修復していましたか
カゼやインフルエンザの場合、熱がさがって、ジットリ期をぬけると、速攻もとの生活にもどそうとしたくなります。
故障の場合は、痛みがひくと、以下同文。
でも、ここで一呼吸。
修復は、充分にできあがっていますか?
ここをおこたると、また同じことの繰り返しになりませんか。
長びくカゼの患者さん、というのがおられます。
「もう、2週間もカゼがぬけません」
ゲッソリ、やつれています。
この場合、2つの可能性が考えられます。
ひとつは、カゼだと思っていたけど、実はカゼじゃなかったという場合。
特別な肺炎や結核だったとか。
リウマチやガンだったとか。
もうひとつは、こっちの方が圧倒的に多いのですが、「修復」を忘れている。
修復あっての回復
たかがカゼ、といっても、カラダはさまざまなダメージを受けています。
カゼのウイルスは駆逐しました、と宣言されても、残されたカラダは、イコールもとにもどった、ではありません。
ウイルス去りぬと、カゼ去りぬは、まったく別の話です。
ウイルスがいなくなったからといって、カラダが元通りになっているわけではないんです。
修復をしっかりおこなってゆくこと。
ここを忘れて、つい無理な生活にふたたび飛びこんでしまうと、修復されないカラダは悲鳴をあげてしまうかもしれません。
肺炎が、ふつうのカゼより経過が長びく、という要因のひとつは「修復により手間がかかる」ことです。
ふつうのカゼ→肺の入り口までの損傷
肺炎→肺の奥までの損傷
というイメージです。
おかしい。
なおってないんじゃないか。
いえ、なおってないんじゃなくて、もどっていないだけでしょ。
無理をしないと、生きてゆけない時代です。
あるいは、つい無理や強がりを示したくなっちゃう気持ちも、わかります。
生きてゆく、ってことは大変なことです。
でも「ちゃんと修復の時間をもたい」「無理なものは無理という」という生き方を忘れないでいただきたいと思います。
カゼが去ったあとの時間を、大切にもちたい。
ある意味、カゼのときよりも大切なこと、です。
ゆっくり休む、そういう余裕をもてる人生歩みたいものです。
修復を おこたる先に くらしなし
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