もしも、と考えてみる
はやく走る技術、とは。
ストライド(歩幅)は、大きく。
力強い動作。
ウデも、しっかりとふる。
最近では、ハキモノの選択も重要。
厚底前傾シューズ。
ソコには、カーボンプレートでジャンプ。
アゴはひく。
視線は、前方やや落として。
呼吸は、腹式。
いろいろな技が、提唱されています。
それらを、さまざまな方法で学べます。
本や雑誌も、たくさんあります。
コーチという、先生に教えを受けることもできます。
いまや、SNSを通してだって、学べます。
こんなにも、学ぶのに苦労しない時代がくるなんて。
だから、みんな、はやく走れるのかな。
でも、これらの技術は、「事実」なのか、「仮説」なのか。
事実、というのは普遍的なもの。
仮説、というのは、ひとつの方法。
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権威という後ろ立て。
わたしたちは、幼少期より、たくさんのことを学んできました。
学ぶっていうくらいですから、正しいことを。
たとえば、教科書に書かれていたことがら。
これらは、文科省というチェック入りの内容です。
ウソが書かれているわけ、ないじゃん。
そういえば、昭和初期の教科書。
神聖なるもので、またぐなんて、とんでもありませんでした。
なのに、敗戦後は、スミで塗られちゃっていました。
なんで、消されちゃったのでしょうか。
いや、今のは正しいことだよ。
まちがいは、ありません。
うーん、わたしごときには、判断しかねます。
でも、たとえばの世界。
「1+1=2」は、正しいか。
そういうこともあります。
ただ、世の中のすべてが、こうとは限りません。
むしろ、「2」にならないことの方が多い気がします。
20℃の水に、20℃の水を加えても、お風呂はわきません。
「正しい」は、ひとつじゃない、というのも事実です。
もちろん、権威は、正しいこととは無関係です。
というより、かえって道からそれていませんか。
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仮説の割合
事実でないものは、仮のもの。
それらを、仮説とまとめてもいいかもしれません。
それでは、この世の中は、どのくらいの仮説で占められているでしょうか。
たとえば、竹内薫先生という方がおられます。
その著書に『99,9%は仮説』(光文社新書)というのがあります。
含蓄にとむ本です。
にしても、99,9%とでたか。
ほとんど、すべてじゃないか、仮説よ。
そういえば、病気の概念や、治療法も、どんどん変わります。
10年前と変わらない、というのは少ないかも。
まったく、別の、というより、反対の方向へ向いちゃっているのも少なくありません。
あれは、仮説だったのか。
だから、変わっちゃったのか。
例のウイルスの概念。
例のワクチンの効能。
ま、こういうのも、立派な仮説の物語ですね。
そういう余裕もほしい、このごろ。
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事実は、どこにある
では、「事実」なんてものは、ないのでしょうか。
そんなことはありません。
そこまで、ひねくれていません。
ちゃんと、事実もある。
一番たしかなことは「自分の存在」ですか。
これは、ちゃんとある。
ありますよね。
じつは、ユーレイでした、という方はいないでしょう。
世の中が、どうになっていようが。
どんな理屈がまかり通ろうが。
自分がいる、というのは事実。
逆に、自分がいなくなったら、どうなるのかはわかりません。
「われ思う、ゆえに、われあり」
といっていたのは、デカルトさんです。
自分という存在は、まぎれもない事実です。
しつこいですが、ユーレイです、という方はいらっしゃらないと思います。
ですから、自分の存在から、スタートしてみたい。
自分が感じられること、それは事実です。
ちゃんと、感じられていれば。
他人の意見ではなく。
他人が、何を主張してくるのか。
それは、置いておいて、まず自分の感覚、自分の感性を大切にしておく。
事実なんですから。
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たとえば、走り
どんな走り方がいいのか。
世にでている教えは、みな「仮説」です。
なぜなら、自分からでたものではありませんから。
ちょっと、身もフタもない感じですが。
信じるものは、自分と自分の感覚のみ。
なので、まず走ってみます。
そのとき生じる感覚は、自分という存在がたしかに感じるもの。
自分という存在が感じる感覚に、ウソはありません。
何を、きついと感じるか。
何が、快感に感じるか。
何を、不自然に思えてくるか。
それらは、自分という存在が感じられる感覚です。
ですから、すべてが、ウソのない事実。
事実を、大切にしてゆく。
仮説に、振りまわされない。
そのためには、自分を大切にしておきませんとね。
自分の感性を、大切に育んでおきませんとね。
自分という存在を、邪険にあつかっておくと、事実がゆがみます。
今の世の中、仮説のウズに、ふり回されされすぎているような気がしてなりません。
自分の考え、どこへいった。
ランナーだったら、そのへんの勘所がきっとわかると思います。
走る、というのは、自分を使うことですから。
走ることで、自分という存在がハッキリしてきませんか。
それこそ、走る偉大なメリット。
また、そうしておかないと、故障もしやすくなりますし。
仮説で、無理や不自然を背負っちゃ、こわいですね。
走り自体も、たのしくなれません。
われ走る、ゆえにわれあり。
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走りだす ただあるのは 自分の感覚
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