踏まれても、踏まれても

雑草魂

 

踏まれても、踏まれても、立ちあがる雑草たち

雑草は、強い。
どんな苦境に立たされようが、たくましく育ってゆく姿勢は、草むしりをしない人にとっては、ひとつの生き方のお手本にもなっています。

そこから、決して主流派ではないけれど、負けずにガンバる象徴として「雑草魂」というコトバもあるくらいです。
そのまま「ざっそう魂」と読むこともあれば、「あらくさ魂」という人もいます。

ランナーの中にも、雑草に生き方に共感を覚える方が少なくありません。
ランニングという行為じたいに、雑草の生き方が重なるのです。

踏まれても、立ちあがる雑草。

わたしも、長い間、疑いもなく、そう思っていました。

なにしろ、春から夏にかけては、雑草の中でくらしています。
どこを見ても雑草。
カマと蚊取り線香は、草むしりの強力な相棒です。
でも引っこ抜いても、1週間もしないうちに、また元の草むら。

ところが、これはとんだ思いちがいだったのではないか、と気づかさせました。
そういうもの」という先入観は、しばしば目の前の世界にフィルターをかけます。

というのも、雑草は決して何度も立ちあがらない、という事実を目にしたからです。


 

方向転換

 

この夏、朝のお散歩やランニングで通る道ばたの雑草を、意識して毎回、踏みつづけてみました。

1回踏んづけたくらいですと、まだ小さな雑草は、ふたたび立ちあがってきます。
特に、オヒシバなんか。
何日か間をあけて踏んづけた雑草の中にも、ふたたび立ちあがってくるものがありました。

ところが、連日踏みつづけていると、多くの雑草は、もう立たなくなります。

立たなくはなりますが、枯れるわけではありません。

倒れたまま、つまり寝っころがったまま、背をのばしてゆきます。
そうです、横にむかって、ちゃんと成長してゆくのです。

成長したあかつきには、立派にも咲かせます。
そして、タネまでつけてゆくのです。

おお、そういう生き方もあるのか。

この歳になって、はじめて知った雑草のひとつの生き方。
飛び上りたくなるような感動をおぼえました。
見なれているはずなのに、始めて意識した一場面。


 

なぜ寝たまま、のびるのだろう

 

踏まれても、踏まれても、立ちあがる

これこそが雑草のタクマシサと、ずっと思ってきました。

でも、現実は、ちがっていました。

踏まれたらいいさ、横にのびてやるから。

なぜ、そんなギアチェンジをしちゃうんだろう。
なぜ、そんなアチェンジが可能なんだろう。
なぜ、そんなギアチェンジを選択するんだろう。

朝の道ばた、そんな「なぜ」の嵐がアタマを横ぎってゆきます。

そんなとき、雑草博士の稲垣栄洋先生(静岡大学教授)のエッセイに出あいました。

「踏まれたら、横にのびてゆくのには、意味がある」。

うーん、「なぜ」の種まきをしておくと、うれしい縁がうまれます。


 

生きる目的

 

雑草の生きる目的って、何でしょうか。

雑草の生きる目的は、踏まれても、踏まれても、その都度立ちあがって、背すじをピンとのばしてゆくことでしょうか。

どうやら、ちがうようです。

1番の目的は、ちゃんと花を咲かせ、実を宿して、次の世代にバトンタッチできるように生きることです(人間の都合のいい解釈かもしれませんが)。

それでは、背すじをのばして、上に上にと向かって育とうとするのは、なぜなんでしょうか。

それは、お日さまのエネルギーをいっぱい受けて育ちたいからです。
ですから、野原ではいろんな雑草が、われもわれもと太陽の主導権をとるべく、背のび競争をくりひろげています。

ところが、そんな居場所に、頭から踏みつけるヤカラが入ってくる。
何度も、踏みつけられてしまう。

しかし、まわりを見まわしてみると、まわりの雑草も同じように踏まれている。
みんな寝ている。

だったら無理に背のびしなくても、お日さまのエネルギーは受けられるじゃないか。
まわりのみんなも踏みつけられているのだから、ひとり意地をはって、立つことしか目に入らない生き方に執着する必要はない。

本当の目的は、別なんだから。

ここでは、ゆっくり寝ころんで育ってゆけばいいんだ。


 

本当のタクマシサ

 

思いこみは、見る目をくもらせます。

踏まれても、踏まれても、立ちあがるのが雑草の本領ではなかったのかもしれない。

上にのびることだけが生きる道ではないんだよ、とちゃんとギアチェンジできるシタタカサこそが、雑草の本当のタクマシサなのかもしれない。

だから、踏みつけられても、嵐でたおされても、クキを折られても、ちゃんと花をつけ実をみのらせ、来年もまた同じように芽吹いてくる。

走り方。
シューズ。
サプリメント。

コレしかない、という目でみていると、ときに思いこみの世界にはまり込んでいることに気がつかなくなっている、なんてこともあるかもしれません。

って、チョー少数派飛脚走りのおっさんの話は、校長先生の朝礼の訓示みたいな話題となってしまった、今回のオチでした。

ランニングというのは、ある意味、踏まれないでつづけることがむつかしい行為かもしれません。
痛めたり、ひるんだり、くじけたり。

立ちあがるだけが、選択肢じゃない。
横にのびたって、いいのかもしれない。
余裕も必要ですね。

たーさん
上めざし 伸びるばかりが 能じゃない 😜

 


 

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