星の下
人生には、しばしば、ツイてないことがおこります。
それを、「不運」といったりします。
運が悪かった。
わたくしのマラソンレースには、しばしば不運がつきまといます。
ホントに、運がわるかったのか。
実力通りじゃ、ないのか。
じつは、そうです。
よいことがおこると、「幸運」。
よくないことがおこると、「不運」。
よいことを耕す機械が、耕運機(すいません)。
運気は、めぐっています。
あざなえる縄のようです。
不運も、たまになら、仕方がありません。
人生、そうそう、うまくゆくばかりじゃありませんから。
ところが、うまくゆかないことが続くと、さすがに考えてしまいます。
自分は、「運」が悪いんじゃないか。
悪い運気のなかに、落ち込んじゃっているのか。
そういう星のもとにうまれた宿命なのか。
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運命
さだめられた運を、「運命」といいます。
運命論的考え、というのがあります。
ひとの生きざまは、生まれたときから、定められているという。
そういう「星」の下、とかいいます。
その根拠のひとつに「遺伝子」という存在があります。
生き方の情報が、組みこまれた運命決定因子。
なんて、考えは、お好きですか。
ところが、そういうもんじゃないぜ、という見方もちゃんとあります。
ひとの生き方は、決して定められているもんじゃない、と。
遺伝子いうたって、そんなにえらい存在でもなさそうです。
生き方には、無限の選択肢がある。
どういう道を選ぶのかは、生きてゆく中で、選び方で変わる。
その選択に、大きくかかわる要因があります。
人生前半期は、「環境」。
人生の後半期に入ってくると、そこに「意思」が加わってきます。
いずれにも共通する因子として、習慣の力が関わってきます。
続いてこそ、変わるからです。
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「環境」から「意思」へ
生まれたばかりの人間は、なかなか区別がつきません。
ですから、産院での赤ちゃんは、腕輪でキチンと標識もされます。
そうしないと、プロでも、見分けがつかなくなることがあるからです。
最初の人生に大きく関わるものとして、「環境」があります。
どんな国で生まれたか。
どういう時代に生まれたか。
どんな両親のもとに生まれたか。
そして、どんな友だちに囲まれるか。
どんな教育をうけるか。
そういった、自分以外の環境要因を抜きにして、成長は語れません。。
これを「氏より育ち」ともいいます。
しかし、そんな自分以外の要因だけで、人生はすすみません。
やがて、自我が芽ばえる。
自分は、何をしたいのか。
どういう生き方をしたいか。
そういった自分の「意思」の力が、生き方をつくってゆきます。
もちろん、その前提として、「意思」をもてる環境の大切さは言い尽くせませんが。
自分の「意思」をもたせようとしない時代に、「意志」のつくる選択肢は作られにくいものです。
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運は、変わる
このように考えてゆくと、ひとには、あらかじめ定められた「運命」なんてないのだな、という気がしてきます。
運は、どんどんと変わってゆくものなんですね。
大切なのは、変える環境。
変えようとする意思。
そして、継続の力、これは習慣ともいえますが。
では、具体的に運を変えたいな、と思うとき、どうしたらよいでしょうか。
変えよう、とすれば、変えられるものであるならば。
こういうとき、わたしたちは、恵まれています。
もう、言霊(ことだま)が、答えを宿していませんか。
「運」を「動かして」ゆきたい。
だったら、これを連結させてみましょう。
すると「運動」となるじゃありませんか。
運動って何?
考えたことがありますか。
体を動かすこと。
体操すること。
スポーツすること。
体育でやること。
そういうもんじゃ、ないようです。
「運」を「動かす」ことが、運動の本質なんじゃないでしょうか。
運動というのは、運を動かしてゆく行為にほかならないのです。
(わたくしの個人的見解)
とっても、重いものを秘めた行為でした。
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どっちに動かす?
自分の「運」は、動かすことができる。
その方法は、運動すればよかったんだ。
といっても、ただ動けばいい、というわけでもないでしょう。
悪い方に動くことだってあるからです。
どうせなら、よい方向へ動かしたい。
ここに、運動の質や内容が、関連してくるのじゃないでしょうか。
自分を、よい方向へと導く運動。
自分を、幸せにする運動。
せっかく自分にスイッチを入れて動くのなら、こうありたいものです。
そのためには、自分との対話を大切にした運動を、ぜひ。
他人から強要される運動。
ひとのために無理をする運動。
こういうのは、運は動いても、望まない方向へと動いていってしまう危険性があります。
自分の望む「運気」を遠のかせる運動には、ご注意を。
せっかくなら、シアワセの方向へむけた「運動」をしたいですね。
きっとそれは、楽しみになってゆくと思います。
だって、することでシアワセに入ってゆくんですから。
そういう運動、楽しんでますか?
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