自動車の場合は
人間にとってのたべものは、自動車のガソリンのようなもの。
いえ、ぜんぜん違うんじゃないの、という提案です。
最初に、ガソリン自動車を考えてみます。
ガソリン自動車の燃料は、ガソリンです。
まず、ガソリンを燃料タンクに満たします。
ガソリンは、エンジン内部で酸素の力をかりて燃焼します。
その燃焼エネルギーは、動力をうみだします。
エンジン内で発生した動力は、タイヤに伝わります。
これで自動車は、ブーブーと走りだすことができます。
ガソリンがエネルギー源となって、自動車の走りの原動力になる。
このくらいの理屈は、わたしにも何とかついてゆけます。
ですから、ガソリンがなければ、自動車は走りません。
いわゆるガス欠では、車になりません。
東日本大震災のあと、ガソリンが買えない時期がありました。
わたしは、片道1時間以上をかけて、ママチャリで通勤していました。
空っ風のなか、いい運動になりました。
「これを続けたら、マラソン新記録もだせるぞ」
はい、ガソリンが買えるようになってから、まだ1度もママチャリ通勤していません。
その程度の根性です。
話がそれました。
そしてエンジンの燃費や馬力が、走行性能やスピードを反映します。
ここまで、よろしいでしょうか。
では、人間の場合は、どうなるでしょうか。
「ガソリン」が「たべもの」に代わるだけでしょうか。
わたしは、以前はそう思っていました。
ところが、そうじゃなかったんですね。
シューマッハ先生の実験
人間に直接おこなうことはできません。
そこで、シューマッハ先生は、ミッキーちゃん、いえマウスを相手に、ある実験をおこないました。
マウスのエサを、放射性同位元素でラベリングをします。
そのエサをたべさせる。
たべたエサは、消化管で分解されて、マウスの体内に吸収されます。
そして活動エネルギーに変換されて、生きる原動力に利用されます。
使われたアトは、呼気や尿などにまじって、捨てられてゆきます。
そうです、ガソリン自動車の発想では、こうなります。
この発想で、基礎代謝量や消費エネルギーも計測されています。
ところが、です。
予想だにしなかった展開がまっていました。
たべたエサは、分解されて、カラダに吸収されてゆきます(ここまでは、予想どうり)。
体内に入った分解されたエサは、次々と、カラダの成分になっていったのです。
あるものは、皮膚へ、肝臓へ、腎臓へ、脳ミソへ、血管へ、血液へ。
そして、その場の元々あった成分は、おし出される。
おし出された成分は、捨てられたり、エネルギーに変えられたりしてゆく。
たべたエサの半分以上は、自分のカラダの新しい成分になっていったのです。
つまり、カラダの原材料になる。
その割合は、食べたものの半分以上、6割くらい。
残りが、燃料成分として、利用されていったのです。
自動車とは、ちがった利用のされかた。
自動車は、ガソリンを、自分のボディーに変えてはゆきません。
車体じゃないのよ、カラダは
ちょっと、中森明菜が入っちゃいました。
生体は、自動車と、まったく異なっていました。
ガソリンは、走るための燃料です。
ガソリン自体が、車体の成分に変わってゆくことはありません。
車体は、そのママ。
ですから、車体は経年劣化がすすみます。
さびたり、ヘコんだり、傷ついたり。
ついた損傷は、なおさなければ、そのまま残ってゆきます。
ところが、生体はちがっていました。
そして、シューマッハ先生の話は、マウスでした。
その後、同じことが人間にもおこっていることが、確認されていったのです。
たべたものの半分以上は、カラダのリニューアルに使われてゆくのです。
カラダは、つねに作りかえられている。
その原料が、たべもの。
たべものの第一義的な意味は、活動エネルギーよりも、カラダの更新・維持に活用されているんです。
カラダの維持が、燃料よりも、重視されている。
維持するためには、つねに入れ替えが必要。
うーん、わたしは、うなってしまいましたね。
なお、このあたりの詳細は、生物学者の福岡伸一先生がご専門です。
先生のご著書『動的平衡』は、名著です。
どのくらいで、つくり変えられるの?
カラダの、あらゆるところ。
そこは常に新しいたべもの(部品)で、おきかえつづける。
いつまで、つづくのか。
死ぬまで、です。
しかも、ひとつとして例外場所はありません。
冷蔵庫の奥に、1年前のヨーグルトが残っていた。
こういうことは、体内では決しておこりません。
おきかえられる時間は、場所によって、ことなります。
いくつかの例をあげてみます。
おおよその平均値です。
胃の粘膜は、3日で、すべて入れかわっています。
腸の絨毛は、1日です。
肝臓や腎臓は、1ヶ月で90%以上が、入れかわる。
筋肉は、1ヶ月で60%程度、半年でほぼすべて。
骨も、半年で、ほとんどが入れかわる。
脳ミソだって、1年しないで、すべてが入れかわっている。
皮膚は、1ヶ月くらい。
ざっくりいうと、わたしたちのカラダは、1年前の成分はどこにもない、ということです。
すべて、新しいモノに、入れかわっている。
でも、姿カタチも、記憶だって、変わらないじゃないか。
1年、老いただけだよ。
そこがすごいところなんですね。
分子レベルの入れかわりなので、見た目は変わってゆかない。
ここを、さきの福岡伸一先生は「ジグソーパズルのピースをとりかえるように変わってゆく」という表現をされています。
さすがの比喩です。
1年前の自分の成分は、どこにも残っていないんですよ。
だから、過去に縛られすぎないよう、生きたいね。
そういう問題じゃないですか、笑。
ということで、たべものの見方が変わってきませんか。
カロリー計算で終わっていると、とっても、もったいないと感じました。
ここまでが、たべものの入り口です。
(つづく)
絶え間なく 造りかえられ カラダあり
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