知の巨人登場
変身の第1歩は「意識」するところからはじまる(たーさん)。
芽は、「意識の種」から発芽すると思っています。
何も意識しないところからは、芽はでてきません。
では、何を意識してゆきましょうか?
そこで17世紀の知の巨人、ブレーズ・パスカル先生(1623~1662)に登場していただきます。
名著『パンセ』のみではなく、パスカルの原理とか、パスカルの定理でも名を残す有名なお方です。39歳で没したなんて信じられません。
『パンセ』の中に、こんな有名なコトバがあります。
「人間は、ひとくき(一茎)の葦にすぎない。
自然の中で最も弱いものである。
だが、それは考える葦である」。
(中公文庫、1973年、『パンセ』発刊は1670年)
弱い存在であったとしても、考えることのできる葦は弱いだけじゃない。
なんだか、元気づけられます。
元気をいただいた勢いで、悪ノリします。よろしいですか。
「人間は、ひとくみの足しかない。
自然の中で最も弱いものである(4本足よりハンデあり)。
だが、それは考える足である」。
(たーさん、2018年)
足だって、みつめてほしい
走るとき、カラダを支えるものは足です。
手で支えている人は、あまり見かけません。
足が交互に動くことで、カラダは前進します。
足って、重要じゃん。
では、その足にどれほどの「意識」を向けていましたか?
足は、いろんなことを感じとっています。
足は、一歩一歩を味わっています。
足は、複雑に働いています。
足は、有機的に動いています。
これらが統合して、走れるわけです。
そのことを、意識していましたか?
足との会話を大切にしてきましたか?
単なる道具と思ってきていませんでしたか?
最初の意識
足に意識を向けてみましょう。
わたしからのお誘いです。
では、具体的には足の「何に」意識をむけたらよいでしょうか。
ずばり「歩幅」です。
歩幅にはじまり、歩幅にかえる。わたしの持論です。
ところで、ふだんから歩幅を意識して歩いていますか?
たぶん、意識していません。
意識しなくても、普通に歩けるからです。
長年、歩いているたまものです。
意識をくり返していると、無意識の境地に達するのです。
無意識のなかで、歩きは自分のモノになっています。
では、走るときはどうでしょうか。
やはり、特別には意識しないでしょうか。
走るときも、歩くように走りつづけられるなら、何も申しあげることはありません。すばらしいです。無我の境地ですね。
でも、歩くようには走れていない。
歩くような自然さは、かね備えていない。
そう感じるなら、ぜひ「歩幅」に意識を向けていただきたいと思っています。
どんな「歩幅」で走っていますか?
栗下落
冬にすべての葉を落とした栗の木は、春になると、待ちかまえたように若葉でよそおい始めます。
葉が十分に成長したなと思った瞬間、細長い花が葉をおおいつくします。
それは、まるで春の雪景色をみるような光景になります。
でも、花の寿命は長くはありません。
いっせいに咲いた花は、いっせいに、しかもボタボタと墜落してゆきます。
栗の花の散る時期は、梅雨入りと重なります。
まるで、栗の落花が梅雨前線を引っぱってきたかのようです。
あるいは、梅雨が栗の花を散らせるのかもしれません。
それを、栗下落(つゆり)といいます。
ああ、梅雨がきた。
梅雨でも、雨でも、もちろん走ります。
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